借りぐらしのアリエッティその後の結末や原作ラスト最後がやばい

借りぐらしのアリエッティその後の結末 (1)

2020年8月28日(金) 放送、日本テレビ系金曜ロードSHOW「借りぐらしのアリエッティ」
21時00分~22時54分

夏のジブリ祭り第三弾「借りぐらしのアリエッティ」が今夜放送。
ジブリは基本的にハッピーエンドの作品が多いが、この映画は少しシリアスな終わり方をしたことでファンの間で賛否が分かれている。「借りぐらしのアリエッティ」の原作は、外国の小説をモデルとしているが、ストーリー自体は生命というものの本質を描いている。

アリエッティ達というのは我々人間のことであり、もっと分かりやすく言えば、あれは近代化によって汚染される以前の人間達の象徴でもある。我々はこの地球というものの中で「借り暮らし」をしている存在。自然が作ったものを勝手にちょっと借りて生きているのに、今は人間が作っているみたいに思い上がっているけど、全部自然様がやってくれているだけで、そのお陰で生きている。

映画「借りぐらしのアリエッティ」の最後はわかりにくい終わり方となっているので、今回は原作のその後や結末についてまとめてみた。

■目次

借りぐらしのアリエッティとは

借りぐらしのアリエッティあらすじ

借りぐらしのアリエッティの原作

アリエッティの結末

アリエッティのその後

借りぐらしのアリエッティとは

借りぐらしのアリエッティその後の結末 (2)

この作品は、米林監督のインタビューによると「自然との関わり方を小人の生活を通じて描き、滅びゆく小人をどのように扱うべきか、そして、自然とどのように付き合うべきか」を作品をみた我々人間に問いかけている作品。

「もののけ姫」とは見方が違った「自然と人間の共存」がテーマとなっている。

アリエッティたちのように、自然から生きる糧を少しだけ借りて、「自然に対し謙虚に生きるべき」ということを伝えている。


アリエッティの「借り」る行為を人間界では「狩り」。

必要最小限のものだけ自然から狩って生き、「自分も自然もどちらも無理なく共に存続して行こう」という理想。アリエッティたち小人のことを、わざわざ「滅びゆく種族」というような表現をしているのは、このままだと、いずれ人間も「資源を食いつぶしてしまう」という危惧。または、小人=現実世界の絶滅危惧種でもある。

アリエッティたちの生活が、人間と同じように見えるのは、意図的な演出であり、これが米林監督が「借りぐらしのアリエッティ」の物語で伝えたかった「理想的な人間の姿」でもある。

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借りぐらしのアリエッティあらすじ

借りぐらしのアリエッティその後の結末 (1)

穏やかな老婆・貞子(竹下景子)がお手伝いさんのハル(樹木希林)と共に暮らす東京郊外の古い一軒家。その家の床下には、ある秘密があった。

そこには、好奇心旺盛な小人の少女・アリエッティ(志田未来)と厳格な父のポッド(三浦友和)、心配性の母・ホミリー(大竹しのぶ)が長年住み続けていたのだ。

彼らにとって一番大切なルールは「人間に姿を見られないこと」。家族3人は、貞子の家から食料や衣類など生きていくために必要なものをほんの少しだけ“借り”ながら、ひっそりと生活してきた。

夏のある日、貞子の姉の孫で心臓が弱い翔(神木隆之介)が彼らの家にやってきた。外交官の母が不在の間、貞子と一緒に暮らすことになったのだ。その夜、初めてポッドと一緒に“借り”に出かけたアリエッティは、うっかり翔に姿を見られてしまい―!?

公式サイト

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借りぐらしのアリエッティの原作

借りぐらしのアリエッティその後の結末 (4)

借りぐらしのアリエッティの原作は、メアリー・ノートンのファンタジー小説「床下の小人たち」が元に米林監督が物語を作った作品。

原作「床下の小人たち」は全5作で、映画は原作にはない「日本が舞台の話」なので、原作に病人の翔は出てこない。小人たちを助ける少年は原作でも出てくるが、未就学児童であり、病気を患ってるわけではないので、映画は原作に該当する文章は一切存在せず、オリジナル要素が強い。


唯一の共通の「人間に見つかってはいけない」というルールは、原作でも徹底している。

映画の続きになる2作目で人間に見つかったことで、「安住の地」を求め旅を続ける。その後にストーリーには、アリエッティのいとこの家族も出てくる。

米林監督は、アリエッティたちが旅立つ所で映画を終わらせているが、原作はいろんな場所に家族で冒険しており、人間が作ったミニチュアの町、川くだり、野原に気球と壮大な冒険が待ち構えている。

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アリエッティの結末

借りぐらしのアリエッティその後の結末 (3)

アリエッティは「誤解されている作品」であり、どういうわけか恋愛モノだと思われている人が多いようだが、恋愛要素はかなり薄いのは見てのとおり。この作品は、滅びゆく小人(絶滅危惧種)をどのように扱うべきか、というのがテーマがある。

また、自然との関わり方を、小人の生活を通じて描き、我々人間に訴えている作品でもある。

人間のエゴに振り回される小人は、現実世界の絶滅危惧種および自然であり、小人に好意的な主人公の少年も、結果的に小人の生活を脅かし、追いつめていく。

ここに大きな意味があり、家政婦は小人の生活を直接的に脅かす存在。一方、少年は、それを守ろうとしながらも結果的に壊してしまっている存在。どちらも「人間のしている事」。

小人の生活が一見、人間と同じように見えるのも物語の肝となっていて、それは「理想的な人間の姿」でもある。外界からほんの僅かに借りる「謙虚な生き方」こそを目指すべきということを宮崎駿監督はは伝えたいのだろう。(人間にとっての外界とは、すなわち自然界)

アリエッティのyahoo映画レビューなどを見ると、「ラストにアリエッティが人間になり、少年と結ばれると期待していた」という意見もあったが、原作にもそんな展開はない。結末としては、アリエッティは「人間の世界の裏で謙虚に生きてきたが、人間のエゴにより住処を失い、決して滅びず最後まで生を全うするという動物の自然の本能に従い新たな住処を探しに旅立つ」という結末で終わっている。

そして、「アリエッティとの出会いと別れによって成長した翔は、生を諦めず希望を得る」というのが映画での物語となっている。なので、他のジブリ作品で皆が期待する恋愛要素などまったくない。

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アリエッティのその後

アリエッティのその後はどうなったのか?というと、まず病人の翔については、原作には登場せず、ジブリ映画にしか存在しない。

映画の冒頭でいきなりネタバレされているが、翔の声で「ぼくは、あの年の夏、母の育った古い屋敷で一週間だけ過ごした」と回想形式で語られていることから、「手術は成功し生き延びた」ことがわかる。

つまり、劇中のアリエッティとの出来事を回想している。
翔は、少しずつ健康な身体を取り戻し、普通に学校に通い友達もでき、きっと素敵な大人の男性になったのだろう。

その後、翔とアリエッティの二人が再会することはなく、お互いがそれぞれの人生を歩み、ふとした時に「今どうしてるだろう」と懐かしく思い出した物語が「借りぐらしのアリエッティ」。映画でのアリエッティは、新しい土地を探し旅立っているので、新しい土地で家族と暮らし、いずれはスピラーと結婚して子孫を残していく。

ジブリの「借り暮らしのアリエッティ」は、メアリ・ノートン『床下の小人たち』が原作とされているが、管理人の私見では、いぬいとみこ著書『木かげの家の小人たち』の影響もかなり受けているようだ。その作品の舞台は日本で、小人達は英国からの荷物に紛れて渡日、狂言回しは人間の少年少女、移住を考えている際に現れた現地育ちの同族の話だが、この『木かげの家の小人たち』がもともと、『床下~』からの影響を強く受けてる。

どちらにしろジブリのアリエッティは、原作をふまえつつ創った独自の作品となっていて、全くのオリジナルと考えたほうが良い。

原作でのアリエッティは、原作においてもアリエッテイは同じように人間のものを借り(盗んで)生活しているが、原作のタイトルも「borrowers」(直訳で「借りる人達」)。なぜそのようになっているのかは原作にかかれている。

アリエッティやポッド達小人は、人間が彼らの召使いとして小人の世界に少人数存在していると思っている。それは原作のアリエッティの「人間というものは借りぐらし屋のためにあるのよ」の発言からわかる。

その原作の流れをくんで、地球上には67億人も人間がいるだとか、小人は滅びゆく種族だとかいう突然な話題になった。小人にとっての借りるの解釈は、使うとか利用するとかに近い。それは原作中の発言「わたしたちのすることを盗むっていうんだったら、暖炉が石炭を盗むっていってもいいことになるわ」からわかる。

ゆえに小人の解釈では彼らの行動は「借り」であり、人間の解釈では彼らの行動は「盗み(泥棒)」になる。

原作でのポッド、ホミリー、アリエッティのクロック一家は、様々な困難に立ち向かい、それをなんとか乗り越えようと奮闘する。原作も、困難な未来が待ち受けているけれど、前を向いて進めば道は拓けるといったテーマ。結果的にわざとアリエッティやスピラの行く末を描かず、想像の余地を与えた最後となっている。

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Source: 独女ちゃんねる

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