【芸能】伝説のレディース暴走族雑誌「ティーンズロード」初代編集長が語る、「“引退”があったから警察も許してくれた」

 1989年に創刊され、女性の暴走族レディース”を取り上げ人気を博した『ティーンロード』。最盛期は18万部発行され、社会現象を巻き起こした。初代編集長・比嘉健二氏はその後も『GON!』『実話ナックルズ』の創刊など出版業界ではヒットメーカーで知られる人物だが、今年7月13日にはティーンロード時代を綴ったノンフィクション特攻服を着た少女と1825日』(小学館)を発表。本作は第29回小学館ノンフィクション大賞を獲るなど、話題を集めている。そんな比嘉氏に少女たちの出会いや、誌面づくりについて振り返ってもらった。

◆廃刊危機で出会った“13歳”の不良少女

――創刊4号目でほぼ“廃刊”が決まっていたのは驚きました。

比嘉健二氏(以下、比嘉氏) 当時、中堅出版社では、暴走族雑誌で7~8万部発行し、“8割売れる”のが当たり前。でも、ティーンロードレディース専門で勝負し、1号目は素人の不良少女なのにアイドル雑誌の表紙を作ってみたら、創刊当初の実売は5割程度。今振り返れば、中身の良さが伝わらなかったのかなと思う。4号目まで売り上げが厳しく、社内的にも「そろそろ……」と言われ、半ば諦めぎみのある日、一通の読者からのお手紙が目にとまった。埼玉県東松山市レディース『紫優嬢』からで、全員がさらしを巻いて、紫色の特攻服でビシ!っと決まっていた。レディースの理想像だと思ったね。早速取材を申し入れて、待ち合わせ場所の東松山の駅前名物“赤い鳥居”の横にいったら、少女の集団がうんこ座りで「ぺッ!」と唾を吐いて待っていた。単純に怖いな~って思ったよ(苦笑)。実際に取材がはじまれば、少女たちは礼儀正しいし、凄く可愛い。撮影時に多少トラブルはあったものの、一番印象に残ったのが13歳の“すえこちゃん”。中学にもまともに行ってないような少女で、彼女は“駅番”を担当していましたね。

――駅番とは?

比嘉氏 駅前で自分たちが知らない女の子が、茶髪や派手な服など“不良っぽい”格好をしていると指導すること。「黒髪に戻すか、うちの族に入るか考えろ!」と、ある意味で学校の生活指導に近い感覚かな(笑)。『紫優嬢』が出た5号目は爆発的なヒットを記録し、そこからティーンロードは生き延びることができた。全国のレディースからも応募も殺到し、いい流れができたと思う。その後、前述の“すえこ”ちゃんは15歳で紫優嬢の総長になり、他の埼玉県レディースと連合を作るなど、時代を築いたね。ビジュアルの良さもあって定期的に誌面に載り、雑誌のアイコン的存在に。ほかにも「三河遠州女番連合(女連)」の初代会長・のぶこさん、「北関東硬派連盟貴族院・女族」のかおりちゃん、「綺麗」のじゅんこちゃん、誌面を彩るスターはたくさん生まれた時代。すえこちゃんは篠山紀信に写真を撮られたり、かおりちゃんは松任谷由実さんと共演もあった。

100人規模の撮影でも、警察は“黙認”

――誌面を作る上で、警察との衝突はなかったのでしょうか?

比嘉 当然、大人数で集まれば通報はされる。最初の頃は心臓バクバクで焦ったけど、次第に交渉も慣れてくる。新潟で撮影したときは、大勢のパトカーに囲まれて、複数台のサーチライトを当てられたこともあった。さながら映画の逃走犯。彼女たちのなかに逮捕状が出ている少女がいたようで、一斉に散り散りに。残された私のところに警察官がきて、「責任者は誰?」と。こういう警察との話し合いは多々あって、随分鍛えられたね。私も「偶然鉢合わせただけです」や「週刊プレイボーイです」なんて誤魔化していたけど、「いや、君たちはティーンロードでしょ?」とバレていたり(笑)。でも、「三河遠州女番連合(女連)」の撮影のときは、会長ののぶこさんが「警察に話は通してある」と。駅前に100人近い暴走族が集合し、撮影場所の埠頭へ。大型バスを含む多数の警察車両が待ち構えていたんだけど、特になにも言ってこなかった。警察側もまだ寛大な時代だったように思う。「静かに撮影するならば、あと10分な」と。今だったら暴走行為のほう助で逮捕だよね(苦笑)。

――読者からの“取り上げてほしい”というお手紙も多かったそうですね。

比嘉 自分のなかで、“応募のあった全国の暴走族すべてを取り上げよう”という気持ちが強かった。だから東京近郊のたった3人のレディースも撮影に行ったことも覚えていて。規模云々ではないんですよ、意外に小さい族でも面白い話があったりする。その3人の小さな暴走族は数か月後に編集部に遊びにきたんだけど、黒髪、清楚な服装と随分変わっていた。聞けば、誌面に掲載されたことで、近隣の巨大暴走族に目をつけられたとか。公園でヤキを入れられ、全員裸で走らされ、潰されたと。でも、目は妙にキラキラしていた。あとで、別の総長に話を聞いたら、「巨大暴走族に認められたのが嬉しかったのでは?」と、なるほどな、とは思ったね。

◆“引退”があったから、許される時代だった

――暴走行為に喧嘩、今だったら許されないでしょうね。

比嘉 本当にそう思う、悪いことは悪いんだから。ただ、当時はまだ暴走族にそこまで“凶悪”なイメージがなかったし、警察とも話し合う余地があった。80~90年代暴走族同士の喧嘩が中心で、一般人に危害を加えることは実はほとんどなかった。暴走行為に巻き込まれるなどはあったかもしれないけどね。自分が取材で訪れた過疎の村では、地元の住民たちは「暴走族? 元気でよろしい」ぐらいな感じだったこともある。村の活性化に1つ繋がっている部分もあったり。あと、大人や警察たちが寛大だった理由に“引退”が大きかったように思う。暴走族は大体18歳前後に卒業をする。これは日本の不良の面白さ。アメリカのヘルス・エンジェルスは一生抜け出せない。もちろん卒業しない・させない凶悪な暴走族はいるけれど、大半が引退制で、卒業する。ある意味で部活に近いもの。だから警察が無理くり追い詰めなくても、彼女らも18歳になったら「かっこ悪いよね~」と辞める。あとは地元愛が強いから、みんな地元の活性化のためにしっかり働いてくれることが多い。

暴走族1万人なのに、発行部数は18万部

――編集部に遊びにくる暴走族は、どんな感じだったのでしょうか?

比嘉 礼儀正しかったですよ。印刷所の人がきて、「この人たちが刷っているんだよ」と教えたら、立ち上がって「いつもありがとうございます!」と敬語を使い頭を下げる。ビシ!っと一本筋は通っている。見本刷りをみて、誌面づくりのアドバイスを貰ったこともあったね(笑)

――ヤンキーの助言が、誌面作りに活きている、と。

比嘉 ティーンロードの売り上げが伸びていくなかで、編集者の悪癖として“実験”がしたくなった。ある号の表紙を、文字をなくして、中央にイラスト1点だけに。余白たっぷりで、我ながら「洒落てるな~」と思っていたら、遊びにきた暴走族に「ダメダメ。これは絶対売れないよ!」って。そしたら本当に大ハズレ(苦笑)。また、ある号では統率の取れた暴走族を撮影し、当時流行っていたマンガ・ホットロードを意識し、彼らを“セピア調”にして掲載したんです。そうしたら発売日に彼らから鬼のようなクレームの電話がきて、「なんで俺らがカラーじゃねぇんだよ!」って。コンビニで目を引く雑誌って、やっぱり大衆性は違うんだよなーと実感したね。表紙は文字いっぱい、色使いもド派手。そしてお洒落すぎない大衆性。この感覚はその後に作った「GON!」「実話ナックルズ」にも活かされている。

――巻頭は臨場感のある、集会が多かったですね。

比嘉 やっぱり“悪いもの”をしっかり見せなくてはいけない。大勢が集う追悼集会、引退式に密着するなど、臨場感も強く意識していた。ただ、“走っているところ”は載っていない。理由は暴走行為の“証拠”になってしまうから。掲載号もズラすことも多くて、警察からも多々、「この誌面の暴走族は何月何日に撮影した?」と問い合わせもきても、「2年ぐらい前ですかねぇ」なんて誤魔化したり(苦笑)。

――人気ピーク時は発行部数18万部を超えていたのは驚きました。

比嘉 実は当時、暴走族自体は全国で1万人もいなかった。それでは商売にならない。だから創刊時に想定していた読者層は、“悩んでいる少女たち”だった。毎朝学校に通い、しっかり部活に励む正当な健康優良児は、2~3割しかいなかったと思う。その2~3割は、「プチセブン」のような真っ当なものを読むし、後発のうちでは太刀打ちするのは難しい。やっぱり思春期なので、将来、親との関係性、恋愛、いっぱい悩みはある。悩んでいる少女たちに対して、レディースを“アイコン的存在”にしようと思いついた。彼女たちは明確に生きているからね。だから毎号、レディース総長のインタビューは毎回入れるし、「総長のお悩み相談」もした。それが当たった。ほかにも「ヤンキーメイク術」もあれば、「はじめての産婦人科」もある。

――総長のお悩み相談は意外でした。

比嘉 男性の暴走族に夢を聞けば、「全国制覇っす!」みたいに熱過ぎる人が多い。でも、レディースは「将来は彼氏と一緒にお店をやりたい」とか、「親に迷惑をかけたから、親の跡をついで美容師になる」とか。女性は早熟なこともあり、暴走族でも真剣に考えていることが多い。だから、読者の相談にも真摯に答えてくれることが多かった。

◆録音された“シンナーを止めたい”少女たちの悲痛な声

――編集部として、24時間のお悩み相談ダイヤルも設置していたそうですね。

比嘉 出社時に録音された音声を聞くのが日課で。本当に10代少女たちの悲痛な叫びばかりで、なかでもシンナーの悩みが多かった。「彼氏のシンナーをやめさせたい」「シンナーを吸っているのに妊娠した」など。当時流行っていたとはいえ、シンナーは麻薬でもコカインレベル中毒性があり、吸ったあとに事故死する人も多かった。だから誌面で毎号“STOP THEシンナー”を連載していて。ほかの活版ページもしっかり読者の悩みを吸い上げるものを中心に。ティーンロードは、悩める10代少女たちの“居場所”にしたかった。

――そんな少女たちの居場所が崩壊したのが、95年。書籍に書かれていましたが、“凶悪化”も廃刊を決めた理由のひとつ、と。

比嘉氏 時代が暴走族からチーマーに変化し、当時版元のミリオン出版ではギャル雑誌『egg』が大ブレイク。完全に時代の潮流が変わり、売り上げが減ったのは大きな理由のひとつ。ただ、ティーンロードも続けようと思っていたなかで、今までなかった不良たちから“暴力”を振るわれることが増えてきた。あくまでも私の憶測だけど、90年代中盤に入ると、暴走行為に対して警察側も過敏になり、取り締まりも強まった。暴走できないストレスだったり、ほかのチャイニーズマフィア系の“もっと凶悪な集団”も現れはじめた頃で。ある暴走族の総長を取材したら、「街の素人をなんとく刺した」「後悔は一切していない」という発言は今でも忘れられない。これ以降、少年たちの死傷事件が一気に増えたように思う。やっぱりスタッフの安全が最優先。当時私は編集長を離れ取締役の立場で、苦渋の決断だったね。

セカンドチャンス!を掴んだ少女たちのその後

――廃刊から28年経ち、『特攻服を着た少女と1825日』では少女たちの“その後”も書かれていました。

比嘉 もちろん全員追いきれてはいません。すえこちゃんはNPO法人セカンドチャンス!』で非行に走った少年少女の支援、現在は高校教師になっている。かおりちゃんはパソコン教室の先生、じゅんこちゃんは悩める少女たちを救うNPO法人をやっている。ほかの少女たちもお母さんになっていたり、地元で働いていたり。もちろん、中には薬物中毒者など、悪いままの人の噂も聞く。ただ、9割ぐらいの元少女たちは「ティーンロードに出てよかった」と言ってくれている。やってよかったよ、本当に。

――今回は書籍がノンフィクション大賞を獲りましたが、今後の目標を。

比嘉 今、担当者が横にいるので言いづらいけれど……。受賞は申し訳ない、という気持ちでいっぱい。だって、自分は編集者として、大勢のノンフィクションライター知ってる。彼らの苦労を知っている。自分は作った雑誌ベースで大賞を取ったんだから、やっぱり嬉しいけれど、申し訳ないよね。でも、こうやって周囲の人が喜んでくれるのはやっぱり嬉しい。「次は何を書くんですか?」と聞かれるけれど、俺は編集者で書き手じゃない。ただ、求められていることもあり、もう一つ書くのは義務はあるかな、とは思う。周囲は「フィリピンパブ中毒だから、その実録を」と言われるけど、それはちょっとね(苦笑)。

<取材・文/加藤カジカ 撮影/長谷英史>

(出典 news.nicovideo.jp)

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Source: 芸能野次馬ヤロウ

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