NHK大河ドラマ「どうする家康」は、人気タレント・松本潤を家康役に放送開始前から大きな話題を呼んだ。
まもなく半分を終え、後半戦へと向かっていく。
「大河ドラマ」においていつも注目されるのが「評判」だ。特に「史実と異なる」といった指摘はSNSなどでも散見され、ときには討論になることも。
ではこの大河ドラマとはいったいどのくらい「正しい」のか?
上杉謙信の関東進出を描いた『謙信越山』が話題を呼び、今月には新著『戦国大変 決断を迫られた武将たち』を上梓するなど注目を集める歴史家・乃至政彦氏が、大河ドラマで時代考証スタッフの一員として『麒麟がくる』『どうする家康』などにも携わっている歴史研究者の小和田泰経氏に、歴史上の人物の「真の姿」に迫る苦労を聞いた。
「史実」として記録に残る歴史上の人物と、ドラマで躍動するキャラクターとしての歴史上の人物には、じつは大きなギャップがあり、「史実」の歴史上の人物の人間味については、じつは、ほとんど何もわかっていないと小和田氏は語るのだが、果たしてその真意とは――。
明智光秀は、どんな気持ちで「本能寺の変」を起こしたのか?
乃至 NHKの「大河ドラマ」では、ここからここまでは「史実」としてあり、ここからここは「伝承」レベルである、みたいなのを提案して、脚本のほうで調整しながら、まとめて、映像化するという流れなんでしょうか?
小和田 根本は、史実なんですよね。そこに、どういう枝葉をつけるかになると、それは、もう、脚本家さんの世界観によるわけですよ。
乃至 確たる史実というものを、ちゃんと提供して、その材料を揃(そろ)えるというのは、料理でいう「食材を揃える」ような感じ……。
小和田 そう。それを料理して、ちゃんとした1枚のお皿に盛って出すのが、脚本家さんや演出とかの仕事です。
なので、どういう料理になって出てくるのかなんて、正直わからないですよね。
元も子もないですが例えば、戦国武将の明智光秀(1516?~82)が、どういう人物だったのかなんて、そうそうわからない。
「本能寺の変を、なんで起こしたのか?」というのも、永遠の謎じゃないですか。
『麒麟がくる』(2020年大河ドラマ)では、織田信長(1534~82)の朝廷に対するないがしろな姿勢を糺(ただ)す、みたいな形で描かれていましたけれども、もしかしたら、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
確かに「信長と信忠父子の悪逆を糺すため」とは言ってはいるんですけど……大義名分でもあるわけでどこまで本当なのかは……過去に行ってみないとわからないんです(笑)。
今は(かつてよく言われた)光秀が信長に虐げられたとか、邪険にされたという説も否定されています。
でも本人は、もしかしたら、邪険にされたと思っている部分もあったかもしれない。
「野望説(光秀が自らの意思で信長に取って代わり「天下人」になろうとしたとする説)」とか……いろいろありますが、最終的には謎ですよね。
子供の頃の徳川家康が「弱虫」だったというのは設定?
乃至 つまり、歴史研究では謎、あえて追求ができない限界を超えるのが、(「大河ドラマ」などの)フィクションの仕事かもしれませんね。
小和田 そうなんですよね。それで、ひとつの光秀像ができる。
今回の徳川家康(2023年大河ドラマ『どうする家康』の主人公)も、弱虫みたいな形で出てきてますけど。あれもひとつの家康像なので。実際のところは、わからないですよね。
特に、幼少の頃の家康の話なんて、ほとんど、伝わってませんのでね。ドラマ上も出てますけども、後世、家康は「神君(しんくん)」、神様として祀(まつ)られています。
それは、もう、神様を冒瀆(ぼうとく)するようなことは、何もいえない時代になって描かれている史料を基にしなきゃいけないので、難しいですよ。
どこまで、それが本当のことなのか。もしかしたら、1割くらいは本当の話を盛ってる可能性もあるし、10割事実なのかもしれないし。
『どうする家康』で、幼少の頃の家康のことを省いたのも、ある意味、正解だったのかもしれないですよね。幼少の頃の家康が、どうしてたのか、記録なんか残ってないわけですから。
安倍川(家康が人質生活を送った今川氏の城下町である駿府を流れる川)で石合戦を見た時に、人数が少ないほうと、多いほうがいて、家康自身は「人数が少ないほうが、結束力があるから、そっちが勝つだろう」といったら、案の定、勝ったっていう話があります。
本当かどうかはわかりません。
先ほども言った通り、神様としての家康さんを祀り上げるために作られた話かもしれない。もしかしたら、実際にあった話かもしれないし。
その点で「どうする家康」は、触れなかった。良かったのかもしれません。
影響力のあるドラマですから、先入観を持たせちゃうという部分もありますから。だから、意図的に、そういうエピソードを外しているようでもありますもんね。
家康の伯父さん、「水野信元」の意外な史実
乃至 なるほど。他にも家康の気になるところはありますか。
小和田 水野信元(みずののぶもと)(織田家に味方する三河の国人領主。家康の母・於大の兄。1560年の桶狭間の戦い後、家康と信長の同盟の仲立ちをした)なんて、徳川方の記録によると、甥っ子の家康を助けるために、自分の家臣の浅井道忠(あさいみちただ)という人を大高(おおだか)城に派遣して、今川義元が桶狭間で信長に討ち取られたから、さっさと退避したほうがいいと、使者を送ったなんて記録もあったりします。
そんな話は『どうする家康』では描かれてなくて。信元は、ちょっと、なんだろうな……キツい伯父さんみたいな形で描かれてました。
だから、実際のところ、どうなのかなってのは、まあ、難しいですよね。それぞれの人物像というのは、よくよく調べると、わからない。
だから、家康という人も、どういう人なのかというのも、本、1冊書いていても、わからないです。それは、だって、今の人を、どう、とらえるかだって……人物って、今、生きている人ですら、わからないもんね。
乃至 わからないですね。
小和田 うん。イメージでは語られていても、その人が実際にどうだったのか。それはね、やはり、歴史とちがうのは、今、生きている人の、残っている史料なんていうのは、ほとんどないけれども、これが歴史になってくると、その蓄積があるので、調べやすいのかもしれないんですけど。
でも難しい。
家康は人物像が大きいがゆえに、余計にわからないのかもしれません。
(乃至政彦の「歴史ノ部屋」対談・小和田先生泰経対談より。第二回に続く)
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Source: 芸能野次馬ヤロウ