【芸能】タモリの司会起用に周囲は「猛反対の嵐」…それでも『笑っていいとも!』が大成功した“決定的理由”とは

裏話

1 吸湿性守口CEO ★ :2021/08/09(月) 19:28:49.42

学費未納で抹席処分となり、叔父に連れ戻される形で地元・福岡へと戻っていたタモリが二度目の上京を果たすのは1975年のことだった。『笑っていいとも!』の初回放送は1982年。この間の7年強、タモリはどのように過ごし、どのようにお昼の帯番組の司会者という名誉ある仕事を勝ち取ったのだろうか。

 社会学者の太田省一氏の著書『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)の一部を抜粋し、芸人としての活躍の足跡を振り返る。

(中略)

そこに一大転機がやってくる。フジテレビ『笑っていいとも!』のメイン司会に起用されたのである。1982年のことだった。

 タモリは「恐怖の密室芸人」として、大学生など若者を中心に絶大な人気を博していた。だが、お昼の12時からの番組となると、視聴者は主婦層が中心である。その時間帯の番組では、各局とも品行方正で建前的なことしか言わないタレントやアナウンサーが司会を務めていた。タモリはそれと正反対の存在だったわけで、その起用は、危ぶむような驚きの声で迎えられた。番組プロデューサーだった横澤彪は、「ワースト・タレントの大本命だった」タモリの起用に対して、「猛反対の嵐」が周囲から巻き起こったと述懐している(横澤『犬も歩けばプロデューサー 私的なメディア進化論』)。

しかし案に相違し、『笑っていいとも!』は結局、32年も続く長寿番組となり、日本のお昼を代表するテレビ番組になった。司会を務めたタモリの存在は、この番組を通じて一躍、全国的に知られるようになった。『笑っていいとも!』でタモリは、それまでの毒のある芸風を抑えてうまくお昼という時間帯に適応したとされる。実際、作家の小林信彦もこう指摘する。「タモリは、発想の根本にある〈差別〉を薄め、(中略)「笑っていいとも!」の〈無害な〉司会者として〈成功〉した」

確かにそういう面はあるだろう。しかし、私たちが想像する以上にタモリはずっと変わらなかったと見るべきではないだろうか。言い換えれば、タモリにとって「差別」や「毒」といった要素は、実はそれほど本質的ではなかったのではないか?

※全文はソースで
文春オンライン 8月9日
https://bunshun.jp/articles/-/47467?page=1

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Source: 芸能野次馬ヤロウ

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