「NHK大河ドラマでは描きづらい」渋沢栄一の激しすぎる"女遊び"の自業自得

そうなんだ

NHK大河ドラマ青天を衝け」の主人公渋沢栄一は、跡継ぎだった長男を40歳のときに勘当している。歴史研究家の河合敦氏は「長男の篤二は女性問題を起こして勘当された。しかし渋沢栄一も数え切れないほど隠し子がいた。希代の実業家も、息子を叱る立場にはなかった」という――。(後編/全2回)

※本稿は、河合敦『渋沢栄一と岩崎弥太郎 日本の資本主義を築いた両雄の経営哲学』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

■渋沢栄一の大きな悩みの種だった「跡継ぎの長男」

岩崎弥太郎素晴らしい後継者を育成したが、意外なことに渋沢栄一は後継者の育成に失敗している。

明治24年(1891)、栄一は渋沢家の家法と家訓を制定した。江戸時代の豪商たちも、よくこうした規定をつくっていたが、栄一のそれは近代的なものであった。これに協力したのが、東京帝国大学の教授で法学者の穂積陳重だったからだ。

穂積は栄一の長女・歌子の夫である。多くの会社の経営に関わるうち、栄一は多額の金銭や株式を所有する富豪となっていった。そこで家法を設けて渋沢同族株式会社をつくり、これらを保管・運営することにしたのである。

同族会社の創立メンバーは全部で10名。宗家の当主である栄一、その後妻の渋沢兼子(かねこ)、長男の渋沢篤二。さらに支家として、穂積陳重(長女・歌子の夫)、穂積歌子(栄一の長女)、阪谷芳郎(次女・琴子の夫)、阪谷琴子(栄一の次女)、渋沢武之助(栄一の次男)、渋沢正雄(栄一の三男)、渋沢愛子(栄一の三女)である。

ただ、このうち栄一の跡継ぎに決まっていた長男の篤二が、栄一の大きな悩みの種であった。

じつは栄一の妻・千代はコレラに罹患して42歳の若さで明治15年(1882)に亡くなってしまった。このとき篤二はまだ9歳だったが、翌年、栄一は兼子と再婚。このとき篤二については、長女の歌子(篤二より9歳年上)とその夫で法学者の穂積陳重に任せることにしたのである。

■遊びの世界に夢中になっていく篤二

幼くして母を失い、父と離れて暮らさなくてはいけない篤二は、やがて趣味や遊びの世界に夢中になっていく。

当時はまだ珍しかった自転車を乗り回したり、乗馬に明け暮れたりしているから、何不自由なく金が使える、かなり過保護な少年時代をおくったようだ。金持ちで栄一の息子ということで、多くの仲間たちも篤二のところに近寄ってきた。だが、篤二にとっては、楽しい暮らしとはいえなかったのではなかろうか。

「右を向いても左をみても息ぐるしくなるような人間関係しか用意されていなかった。傍からみれば篤二はたしかに恵まれすぎるほどの結構な身分だったが、謹厳実直な義兄夫婦の人一倍強い責任感ゆえの過剰な保護干渉と、宗家の跡とりに対する周囲からの期待感は、成長とともに篤二に重苦しくのしかかっていった」

佐野眞一氏も、著書『渋沢家三代』(文春新書)で、篤二の気持ちをそう推測している。確かに渋沢家は、まじめといえば聞こえがいいが、堅苦しい家であった。栄一は毎月1回、同族会を開いたが、そのときの様子を栄一の四男の秀雄が次のように語っている。

「正月の同族会は飛鳥山の家で開くのを例とした。広間の正面にすわった父を取りまいて、穂積、阪谷、明石の義兄たちが堅苦しい社会問題を話し合う。姉たちは姉たちで、若い私たちには興味のない話題に専念する。やがて父が改まった調子で『家訓』を朗読しながら註釈を加える。当時としてはもっともずくめな常識倫理だけに、窮屈でつまらなくてやりきれなかった」(渋沢秀雄著『父渋沢栄一実業之日本社文庫)

まるでその情景が思い浮かぶようである。

■事業そっちのけで義太夫や小唄に没頭する

篤二が嫌気がさしても仕方ないだろう。いずれにせよ、篤二が熊本の第五高等中学校に在学中、大問題を起こしたのである。明治25年(1892)のことである。はっきりとしたことはわからないが、どうやら学校に行かずに遊所に入り浸って女性と遊びまくっていたらしく、結局、熊本から強制的に連れ戻され、血洗島村での謹慎処分となったのである。

ほとぼりがさめた明治28年(1895)、篤二は公家出身の橋本敦子と結婚する。新郎は22歳、新婦は16歳だった。もちろん親族が決めた結婚だった。篤二は明治30年(1897)に栄一が設立した澁沢倉庫部(現・澁澤倉庫株式会社)の部長(支配人)となり、明治42年(1909)に澁澤倉庫株式会社に改組されたさい、取締役会長に就任した。

しかし篤二が力を注いだのは、事業経営ではなく、趣味の世界であった。先の佐野眞一氏は「篤二の趣味は、義太夫、常磐津、清元、小唄、謡曲、写真、記録映画、乗馬、日本画、ハンティング、犬の飼育と、きわめて多岐にわたっていた。そのいずれもが玄人はだしだった」(『渋沢家三代』)という。

渋沢秀雄も長兄・篤二のことを「常識円満で社交的な一面、義太夫が上手で素人離れしていた。諸事ゆきとどいている上に、ユーモラスでイキな人だった」(『父 渋沢栄一』)と回想している。

■ついに篤二の廃嫡を決断する

そんな篤二が、明治44年(1911)5月にある芸者にぞっこんとなり、妻を家から出し、その芸者を家に引き入れると言い出したのである。

この醜聞は新聞にも載ってしまい、栄一は苦汁の選択を迫られる。そして栄一は結局、篤二を廃嫡することに決めたのである。大正2年(19131月10日に渋沢家は東京地裁に「身体繊弱」という理由で篤二の廃嫡申請を提出、正式に廃嫡が決まった。栄一にとっては忸怩(じくじ)たる思いだったろう。なお、栄一の跡継ぎは、篤二の嫡男・敬三となった。

だが、父の栄一には息子・篤二の所業を真っ向から責める資格はなかった。栄一自身も女性にはだらしなかったからだ。ただ、もちろんそれは、現代から見ての話である。伊藤博文にしても、かつての上司・井上馨にしても、さらにライバルの岩崎弥太郎にしても、芸者と遊び、遊郭に出入りし、妾を持っていた。

金や権力を有する者にとって、それはごく当たり前であったし、男としての甲斐性といわれた時代であった。だから栄一もたびたび芸者と遊び、妾も複数かかえていた。ただ、問題なのは、そんな彼が世間に向けては、道徳を声高に唱えていたことである。几帳面な栄一は毎日必ず日記をつけており、妾宅に行くときは「一友人」を問うと記していた。

■屋敷の女中にも手を出していた渋沢栄一

当時、東京の人びとは妾のことをフランス語をもじってアミイと呼んでいた。こうした父の妾(アミイ)の存在を知った四男の秀雄は、「社会的な活動は則天去私に近かったろうが、品行の点では青少年の尊敬を裏切るものがあった」と述べ、「中学の2、3年ごろは私も父の一友人に憤慨したが、」「一生を通じて父のアミイを苦にしたのは母である。

その友人には芸者もいたし、家に使っている女中もいた。現に『一友人』の子の一人は一高のとき私と同級になり、現在もなお半分他人のような、半分兄弟のような交際をつづけている」(『父渋沢栄一』)と告白している。

栄一は屋敷の女中にも手を出しており、関係を結んだ女性の数はわからないくらい多かったといわれる。いわゆる隠し子も相当数いたようだが、まさにその名のとおり隠し子なので、総数はわからない。

ただ、「英雄色を好む」という言葉があるように、絶大なエネルギーである性欲がそのまま他の活動に転化されるのは、歴史が証明している。ともあれ、篤二の色好みは、遺伝の為せるわざともいえなくないわけだ。そんな栄一は、富豪の子息について、次のような文章を残している。

「富豪の子と生まれたものの多くは、親の遺した財産を当てにして、自分は働かずとも栄耀栄華をしておればよいと心得るのは、大いなる誤解である。その親が如何に大資産を所有しておるにもせよ、自己はどこまでも自己であるという考えを持ち、自分だけの智恵を磨き、社会に立ち得らるるよう心掛けねばならぬ。しかし子供がそういう心掛けを出したからとて、その親たるものも家からは一文も出さぬから、如何にでもして衣食して出よといってはおけない。第一に親の義務として学問をさせてやり、社会に立って恥ずかしからぬ行動の取れるだけにしてやらねばならぬ。また相当な地位を支えて、よい加減に困難のない生活をして出られるほどの財産も与えてやらねばなるまい。これは親の情というものであろうと思う。これだけにしてもらえば、その子たるものも、もはや親の財産なぞに目をくれておる必要はない。どれだけでも自己の腕次第に活動ができる。もしそういう子が富豪の家に生まれたとすれば、これ実に余が主義に合致したる理想的人物である」(『青淵百話・乾』)。

■跡継ぎとなった敬三は素晴らしい実業家になり教育事業も成功

じつはこの本が出版されたのは、明治45年(1912)のことである。ちょうど篤二がスキャンダルを起こした後だ。それを踏まえて読んでみると、何だか篤二に対するメッセージ、息子への最後の期待のようにも思えてくるから不思議である。では、その後、篤二はどうなったのだろうか。

渋沢秀雄によれば、「父の事業や家督の相続から解放された篤二は、長男敬三が情理備わった人なので後顧の憂いはなかった。彼は後年宗家から立派な家屋敷と月々の仕送りをもらって、思う女と安穏に暮らしていた。

私もたびたび遊びにいったが、長兄は好きなセッターの優良種を数匹飼ったり、気の合った知友を夕食に招いたり、生活を楽しむことだけが商売みたいな、世にも気楽な一生を送った」(『父渋沢栄一』)と語っている。

残念ながら栄一が期待したように、家から出ても篤二が奮起することはなかった。むしろ、与えられた財産を使いながら、気ままに人生を送ったのである。いずれにせよ、栄一は後継者の育成に失敗したわけだが、廃嫡は篤二にとって幸いだったことがわかる。

というのは、栄一の跡継ぎになった敬三は、素晴らしい実業家となり、さらに学者(民俗学)としても多くの業績を残したからだ。そういった意味では、栄一にとっても災いが転じて福となったわけである。

さらに付け加えるなら、教育事業にかける情熱は岩崎弥太郎に負けていない。むしろ凌駕しているといってよい。主なものをあげれば、実業教育として商法講習所(現・一橋大学)や大倉商業学校(現・東京経済大学)、女子教育として東京女学館や日本女子大学校(現・日本女子大学)などの創立に深く関わった。このほか、高千穂高等商業学校(現・高千穂大学)や早稲田大学名古屋商業学校など多くの学校を支援したのである。

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河合 敦(かわい・あつし
歴史
1965年東京都生まれ。早稲田大学大学院卒業。高校教師として27年間、教壇に立つ。著書に『もうすぐ変わる日本史の教科書』『逆転した日本史』など。

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明治・大正期の実業家、渋沢栄一(写真=時事通信フォト)

(出典 news.nicovideo.jp)

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Source: 芸能野次馬ヤロウ

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