都と矢崎の関係を報じたのは「フライデー」。独身同士なので、誰にもとがめられる筋合いはないが、「なぜ2人が」と不思議がる声は強い。
2人の出会いは2008年1月に名古屋の中日劇場で初演された都のデビュー45周年ショー。コンサートの前に行われた芝居「好きになった人 恩師・市川昭介と都はるみ物語」で共演した。矢崎は都の命名者でもある恩師で作曲家の市川昭介さんに扮し、都は自分自身を演じた。
もっとも、共演者なら2人とも無数にいた。どうして交際に至ったのだろう。「まず、はるみさんの好みはインテリなんです」と、解説するのはレコード会社OBである。
矢崎が東京大文学部中退なのはよく知られているが、一方で都の内縁の夫で自殺した元個人事務所社長のNさんも同じ東京大文学部卒。矢崎は1968年に劇団四季に入り、Nさんは1972年に日本コロムビア(現在コロムビア・ミュージックエンタテインメント)に入社した。
矢崎が都内屈指の進学校・東京教育大附属駒場高(現・筑波大学附属駒場高)から東大に進んだのに対し、N氏は同じく山口県内で指折りの進学校である県立宇部高から東大に進学した。
N氏は抜群に頭が切れ、仕事も出来た。都の「大阪しぐれ」(1980年)「浪花恋しぐれ」(1983年)などをディレクターとして担当したのがN氏。石川さゆり(63)の「天城越え」(1986年)もそうだ。
実は、都は「北の宿から」(1975年)以降、ヒットに恵まれなかった。「玄人好みの楽曲が多い」と音楽業界内で指摘されていた。そんな時、万人受けする「大阪しぐれ」を用意したのが都の担当になって間もないN氏だった。その後、N氏はコロムビアを離れ、都に乞われて個人事務所の社長に就いた。
N氏が自ら命を絶ったのは、45周年ショーの公演先が中日劇場から新宿コマ劇場に移ってから1カ月後の2008年4月だった。ショーはNさんが他界してから2カ月後の同6月にも大阪松竹座で行われた。チケットは既に販売されているから、いくら辛くてもキャンセルは出来ない。
都が悲しみを押し殺してステージに立っている時、そばにいたのは矢崎だったのだ。その上、N氏と矢崎、都は全員が同い年で近しい間柄だった。
「N氏と東大の同窓である矢崎さん、はるみさんはたちまち打ち解けた」(レコード会社OB)
それから12年余。友人関係が続いていた2人が、セミリタイアし、寄り添うというのは、ごく自然なことだろう。
インテリを好む都は天才作家と呼ばれた故・中上健次さんのことも「お兄ちゃん」と呼び、慕った。腎臓ガンに冒された中上さんを何度も見舞い、1992年に逝去すると、「もっと書きたいこと、やりたい事がいっぱいあったでしょう」と泣き崩れた。告別式では弔辞を読み、やはり涙を浮かべながら「よく新宿2丁目で飲みましたね」と振り返った。
全文はソース元で
3/19(金) 17:00
デイリー新潮
都はるみが矢崎滋と「田舎ホテル暮らし」 音楽関係者から「やっぱりね」と言われるワケ
都はるみ
https://news.yahoo.co.jp/articles/27748f345f2b5e9b17317d06e1c0891fc295860e
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Source: 芸能トピ++