現代ビジネス
’80年代、日本のロックバンドの頂点に君臨し、現在もその伝説を国内外の轟かせているBOOWY。孤高のボーカル・氷室京介を見出し、デビューに導いた男の名は長戸大幸、音楽事務所「ビーイング(現B ZONE)」の創設者である。名プロデューサー、そして「芸能界のドン」である長門の貴重な証言を、話題沸騰のノンフィクション・田崎健太著『ザ・芸能界 首領たちの告白』より一部お届けしよう。
BOØWYの氷室京介、誕生
同じ1981年にヘヴィメタルバンドのラウドネス、82年にジャズ歌手の秋本奈緒美、そしてスピニッヂ・パワーのボーカルが組んだロックバンドを世に送り出している。
スピニッヂ・パワーは「ポパイ・ザ・セーラーマン」のヒットの後、メンバーを変えながら活動していた。あるとき、長戸は群馬県高崎市に西城秀樹そっくりの歌い方をする男がいると聞きつけた。西城の熱の籠もった歌唱法は、演歌的な“こぶし”とロック的な要素を併せ持ち、人々の琴線に触れると長戸は考えていた。
「田んぼの真ん中の小屋みたいな所で演奏していたんですよ。面白いと思いました。それで東京に来いって誘いました」
その男、寺西修はスピニッヂ・パワーのボーカリストとなった。この後、寺西は「暴威」というバンドを作っている。「ボーイ」という名前をつけたのは長戸だった。
「イギリスにGIRLという五人組のロックバンドがあったんですよ。GIRLがあるならば、BOYでいいんじゃないかと思いました。そのとき『外道』など漢字のバンドが流行っていた。それで暴威にした」
ラウドネス、そしてBOOWY
GIRLは79年にデビューしたロックバンドである。活動期間は約4年間と短かったが、外見の良さもあり日本では人気を博した。ギターリストのフィル・コリンは後にハードロックバンド、デフ・レパードのメンバーとなっている。この暴威は、月光(恵亮)の発案で「BOOWY」と表記を変えた。そして、寺西は「氷室京介」と名乗るようになった。
「ラウドネスに関しては、LAZYの解散後、他のレコード会社から声が掛からなかったドラムとギターでバンドを組むことになった。まず音楽を固めてからボーカルを探した。東京、大阪で(ヘヴィメタルのボーカル)オーディションをしたけれど、いいのがいない。そこでソウルバンドまで募集を広げたら、アフロヘアの二井原実と出会った。ラウドネスの最初のライブのとき、LAZYのファンクラブに葉書を出して、ライブに来るように頼んだ。ファンたちはLAZYのような(アイドル的な)ポップスを期待していた。でもラウドネスは全く違う。客は引いていたんだけれど、音楽評論家たちはそれをラウドネスの凄さに圧倒されていると勘違いした」
そもそも、ぼくはそんなにヘビメタは好きじゃない。コンサートには行きませんでしたと笑う。
ラウドネスのドラマー、樋口宗孝、ギタリストの高崎晃は世界的なミュージシャンに、BOØWYはヒット曲を連発するロックバンドになった。
ヒット曲、人気バンドを次々とプロデュースしたことで長戸の名は音楽関係者に知れ渡るようになった。
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Source: 芸能野次馬ヤロウ