【芸能】「それから、俺たちは、ネタを作らなくなった」あの島田紳助、渡辺正行も“敗北”を宣言…お笑い界のヒエラルキーを破壊した「超天才コンビ」の正体

「超天才コンビ」がネタを作らなくなったというのは寂しいですね。彼らのユーモアセンスとクリエイティビティがお笑い界に新たな風をもたらしていたので、彼らの敗北宣言は驚きです。

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「はあ~。こんなコンビが大阪から出てきたのか……。時代が変わったなあ。とてもじゃないけど、こりゃ敵わないや……。まだ全国的に無名だけど、売れるな」

 コント赤信号の渡辺正行さんにそこまで言わせ、島田紳助さんも「勝てない」と感じた、お笑い界の超新星とは――? 著書『関東芸人のリーダー お笑いスター131人を見てきた男』双葉社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

◆◆◆

ダウンタウン』の衝撃

 長きにわたって、数多くのテレビ番組を持ち、常に新しい笑いを作り出してきた『ダウンタウン』。

 そんな彼らも、36年前はまだ若手で、俺たちコント赤信号は、その存在を知らなかった。

 1985年9月26日と27日の2日間、大阪の「扇町ミュージアムスクエア(OMS)」で、「激笑コント 漫才をこえる日!!」というイベントが開催された。

 OMSは1985年3月に開館し、2003年3月に閉館するまで、“大阪の芝居のメッカ”とも言われた小劇場。基本的に、芝居が中心だったものの、ときには、お笑いイベントトークショーなども行われていた。

 開館から半年後、その一環として企画されたのが、コント赤信号をメインにしたイベントだった。

 ちょうど全国的な知名度が右肩上がりに高まっていた時期でもあり、

「漫才ではなく、コントイベントを手掛けてみたい。コント赤信号なんて、どうだろう?」

 と考えたOMSのプロデューサーが、俺たちのマネージャーである石井社長に相談し、実現することになったらしい。

 出演したのは東京組と大阪組の各2組で、東京から来たもう1組は、一発芸やモノマネなどで人気を集めていた『ジャドーズ』。

 そして、「せっかく大阪でやるんだから、いま大阪で面白い若手を呼ぼう」ということで選ばれたのが、ダウンタウンと女性コンビ『非常階段』だった。

 ネタの内容はほとんど忘れてしまったが、イベントの構成は、コント赤信号による新作コント3本。その間に、他の3組がネタを1、2本披露するというもので、それを2日連続で行ったと思う。

 そこで初めてダウンタウンの漫才を見たときの衝撃は、今でも忘れられない。

 芸人というものは、同じ舞台に立てば、先輩だろうが後輩だろうが、そこは勝負の場となる。

 そして、観客の反応によって、自分たちが勝ったかどうか、だいたい分かるものだ。

 そのとき、俺は、小宮と石井と一緒に舞台袖にいたのだが、ダウンタウンの漫才を見ながら味わったのは、完全なる敗北感である。

 それは、観客の反応だけではなく、ネタに対しても言えることだった。

「まだ全国的に無名だけど、売れるな」

 どれも秀逸で、新しい発想によって作られていた。

「へー、こういう発想の漫才があるのか……。」

 ただただ驚くしかなかった。

 たとえば、80年代初期の漫才ブームを彩った先輩の漫才師たちのネタは、確かに素晴らしかった。人気を得たのも当然だった。

 ただ、俺としては、発想は理解できた。

 俺たちは、テクニックや実力では、漫才ブームの人たちに勝てないけど、発想なら勝てる。そういう思いは、強くあった。

 さらに、漫才ブームにおける大阪の漫才と言えば、パワーで勝負するイメージが強かった。

 ザ・ぼんちやのりおよしおがその典型だろう。

 紳助・竜介は、当時の大阪では珍しく、発想やセンスのよさを打ち出していたコンビだったが、パワーもしっかりと備えていた。

 それに対して、初めて見たダウンタウンのネタは、パワーとは対極にあるシュールなネタであり、センスに満ちあふれていた。

 しかも、くだらなくて面白い。漫才の実力もある。「はあ~。こんなコンビが大阪から出てきたのか……。時代が変わったなあ。とてもじゃないけど、こりゃ敵わないや……。まだ全国的に無名だけど、売れるな」

 おそらく、小宮と石井も同じようなことを感じていたと思う。

 そのうえ、後で聞いたら、ダウンタウンは、1982年春に高校卒業後、吉本興業が創設したばかりの新人タレント養成所「吉本総合芸能学院」に一期生として入学してから、わずか3年半のキャリアだったという。

それから、俺たちは、ネタを作らなくなった

 コント赤信号は、イベントメインの出演者だというのに、もはや負け戦を続けるしかなかった。

 そのとき、こう思った。

「あー、もう俺たちの時代じゃないなー。これからこういう若手がドンドン出てくる。ネタで勝負をかけていくのは、もういいか……」

 それから、俺たちは、ネタを作らなくなった。

 実は、紳助さんが、1985年5月に紳助・竜介の解散会見をした際、その理由として、勝てない相手の1組にダウンタウンの名を挙げているのだが、とても理解できる。

 つまり、1985年9月26日と27日は、「コントが漫才をこえる」というよりも、「ダウンタウンコント赤信号をこえていった」と思い知らされた日だった。

(渡辺 正行/Webオリジナル(外部転載))

あの島田紳助さんでさえ勝てない…お笑い界の世代交代を加速させた「超天才コンビ」とは?(写真:時事通信)

(出典 news.nicovideo.jp)

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Source: 芸能野次馬ヤロウ

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