【芸能】松本人志の「人生は全部ガチャ」理論には異議がある…「人生の偶然」と「出生の偶然」を混同すべきではない理由

松本人志の「人生は全部ガチャ」理論には一定の共感を覚えますが、出生の偶然と人生の偶然を区別する必要があると思います。出生の偶然は私たちが選択できないものであり、人生の途中で何かしらの選択をすることで人生が変わる可能性があるという意味で、違いがあると考えます。

親を選べないことを皮肉った「親ガチャ」という言葉について、お笑い芸人松本人志氏が「親だけではなく人生は皆ガチャだ」と違和感を表明し、話題を集めたことがある。関西外国語大学の戸谷洋志准教授は「親ガチャを他のガチャと同列に語るべきではないだろう。それは苦境に陥った人々に追い討ちをかける、非情な自己責任論となる恐れがある」という――。

※本稿は、戸谷洋志『親ガチャの哲学』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

■松本人志「人生は全部ガチャ」

著名人のなかには、「親ガチャ」という概念に違和感を表明し、それに対する異論を唱えた人もいます。

たとえばお笑いコンビダウンタウン」の松本人志は、2021年9月19日に放送されたフジテレビ系ワイドナショー」のなかで、「親ガチャ」に関して「これたぶん若い人たちがもっと軽やかな感じで遊んでた出来事、言葉なんですよ」と説明しました。その上で、「これを変に社会現象にしようと思って、大人たちが取り上げると、どんどんシリアスになっていって、面白くなくなっていっていますよね」と指摘しました。

松本によれば、「親ガチャ」はあくまでも戯言であり、そうしたものとして扱われるべき言葉です。それが戯言であるという了解が忘れられ、何かの社会的な現実を指し示すものとして理解された瞬間に、この言葉のもともとの意味は失われてしまいます。

たしかに、「親ガチャ」が単に悲愴(ひそう)な概念ではなく、ある種のアイロニーを伴った言葉であることは否めないでしょう。そうであるとしても、「親ガチャ」という言葉には、真剣に受け取るべき課題が示唆されているのではないでしょうか。しかし、松本はそうは考えません。彼によれば、この言葉を真剣に受け止めた瞬間に、それが破綻した概念であることが明らかになるからです。彼は次のように指摘します。

それ言い出したら、全部がガチャで。子どもガチャもあるやろし、ペットにしたって、こんな奴に飼われたかっていう飼い主ガチャもあるでしょうし、家電ガチャもありますよ。「また外れた。しょっちゅう壊れるな、こいつ」みたいなのもあるし、担任ガチャもあるし。

この松本の主張は、「親ガチャ」という概念に寄せられる、もっとも典型的な批判の一つです。そのため、少し細かく、この主張がどのような構造をしているのかを分析してみましょう。彼の主張は果たしてどこまで正しいのでしょうか。

■家電は買い直せるが、親は「選択のやり直し」がない

第一に松本は、「親ガチャ」を同じように並び立つ様々な「ガチャ」と同列に位置づけています。人生において起こることはすべてが「ガチャ」であり、「親ガチャ」もその一つに過ぎない、ということです。

たとえば「子ガチャ」は、生まれてくる子どもがどんな特性を持っているか分からない、ということを指しているでしょう。また「家電ガチャ」は、買った家電がちゃんと望み通りの働きをしてくれるか分からない、ということを指しているでしょう。そうした、事前にはすべてを知り尽くすことができない選択の一つとして、「親ガチャ」があると捉えているのです。

しかし、本当にそうでしょうか。筆者はそのようには考えません。確かに人生には様々な「ガチャ」があります。しかし、そのなかでも「親ガチャ」には、無視することのできない独自性があるはずです。

まず挙げられるのは、その「ガチャ」によってもたらされた影響を、後からやり直すことができない、ということです。「家電ガチャ」であれば、選択をやり直すことができます。もう一度、別の商品を購入すればよいからです。

一方で、貧しい家庭に生まれ、十分な教育を受けられなかった子どもが、その経済的な条件を挽回するのは、家電ガチャとは比較にならないほどの困難を要します。あるいは、児童虐待を受けた子どもが、その影響に囚われずに生きていくことは、それよりもさらに困難であると言えるでしょう。

■「親ガチャ」はレバーを回すことすら選べない

第二に、松本は「親ガチャ」を、人間が自分で選択することのできる偶然性と並列させています。彼の言葉で言えば、「子ガチャ」や「家電ガチャ」がそれに相当します。そもそも「ガチャ」は、レバーを回さなければ玩具やアイテムを引き当てられないのであり、そこには偶然性を選択するという主体性が要求されます。

レバーを回すのは自分であり、レバーの結果が何であるかは選べないにしても、とにかくレバーを回すか回さないかは選べるのです。このように、偶然性に支配された選択の機会が人生に幾度もあることは、確かに真実でしょう。

■「親ガチャ」にいかなる選択の余地はない

しかし、それらの「ガチャ」と、「親ガチャ」を並列させることはできません。なぜなら子どもにとって、この世界に生まれてくることを自分で選択することは、そもそもできないからです。

生まれてくるということ――すなわち出生は、一方的に与えられる帰結なのであり、それに対して私たちにはいかなる主体性も与えられていません。私たちには、「子ガチャ」のレバーをひねることを選べたとしても、「親ガチャ」のレバーをひねることはできません。そこにはいかなる選択の余地もないのです。

■「人生は全部ガチャ」は自己責任論と紙一重の理論

松本が述べるように、人生は様々な偶然にさらされています。そうした偶然を受け入れながら、自分の人生を形作っていく――彼は、それが常識的な人生観である、と言いたいのかも知れません。筆者もそのこと自体には賛成です。

しかし、「親ガチャ」に見られる出生の偶然性は、人生のなかで起こる様々な偶然とは、やはり一線を画したものであるように思えます。両者の間にある違いを無視することは、私たちの社会が遭遇している深刻な社会問題を、むしろ矮小(わいしょう)化することになるのではないでしょうか。

もっと単純に言ってみましょう。たとえ人生が無数の偶然に左右され、そのほとんどが仕方ない現実だとしても、生まれた家庭によって将来の経済状況が決定される社会は、やはり間違っているのです。そこから目を背けることは、苦境に陥った人々に追い討ちをかける、非情な自己責任論と紙一重なのではないでしょうか。

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戸谷 洋志(とや・ひろし
関西外国語大学准教授
1988年東京都生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。『ハンス・ヨナスの哲学』『未来倫理』など著書多数。

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※写真はイメージです – 写真=iStock.com/Ladanifer

(出典 news.nicovideo.jp)

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Source: 芸能野次馬ヤロウ

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