【芸能】とんねるずはなぜ「高卒」をウリにしたのか…多くの日本人が高卒だった1980年代に生まれた"ある風潮"

1980年代は高卒者が多かった時代であり、とんねるずが高卒をウリにしたことは、彼らが一般の人々との共感を生み出すための戦略だったのかもしれません。高卒者が苦労や困難に立ち向かう姿勢に共感する人々が多くいたため、彼らのメッセージはより強く響いたのかもしれません。

1980年代とはどのような時代だったのか。ライターの速水健朗さんは「1985年の4年制大学進学率は26.5%で、社会の多数派は高卒だった。だが、この頃から4大卒が当たり前という『学歴至上主義』の風潮が生まれ始めた」という――。

※本稿は、速水健朗『1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀』(東京書籍)の一部を改稿・再編集したものです。

■会社や大学まで「ブランド化」される時代

1985年とんねるずブレイクの年。まだ若手にもかかわらず、大物芸能人にものおじしないのが彼らの売りだった。当時のとんねるずが売りにしていたのは、高卒という最終学歴である。

 
  俺達ゃ帝京だ
  言いたかねえけど(自慢じゃねえけど)
  卒業生
  俺達ゃ高卒だ
  自慢じゃねえけど
  字を知らねぇ

(『とんねるずテーマ』作詞:秋元康、作曲:見岳章)

1985年の4年制大学進学率は男子38.6パーセント、女子では13.7パーセント。女子が低いのは、短大進学者が多かったから。当時の、男女合計の4大進学率は26.5パーセントである。

まだ社会の多数派は高卒である。だが、この頃から4大卒が当たり前という学歴至上主義の風潮が生まれていたのだろう。

では、なぜとんねるずデビュー当時、高卒であることを強調したのか。思い当たるのは、大学のブランド化時代である。1984年刊行の『金魂巻』は、○金、○ビで世の中を二分した職業図鑑だった。もちろん、その状況をパロディにしている。着る服や持ち物だけでなく、会社や大学まであらゆることが“ブランド化”される時代への皮肉。

とんねるずも、似たようなところがある権威の対象をパロディにする。『とんねるずテーマ』が入っているアルバム『成増』は、小学生の当時、僕がもっとも頻繁に聴いていた音楽だが、ここでパロディにされている対象が、矢沢永吉、松山千春、プリンスだということを知るのはのちの話。

■団塊ジュニア世代の大学進学率は、とんねるずの世代よりもやや下がる

4大への進学率が伸びていたのは、70年代のこと。80年代は全般としてやや下がっていた時期。とくに団塊ジュニア世代が受験年齢に差し掛かる80年代後半に4大進学率が下がっている。つまり、団塊ジュニア世代の大学進学率は、とんねるずの世代よりも実はやや下がる。当時の小中高生は、とんねるずが大学に行っていないのであれば、自分も無理に行くことはないな、と思ったはずである。

73年生まれが18歳になる91年の男女合計の4大進学率は、25.5パーセントである。男子34.5パーセント、女子16.1パーセント(女子の短大は23.1)。この世代の人口増加に、大学の枠の増設が間に合っていなかった。もしくはその後に訪れる人口減を見据えたところもあるだろう。枠を増やしたところで、その波を越えれば、今度は減少の波が始まる。実際に団塊ジュニア世代が受験期を通過したあとに4大進学率の上昇が見られる。

■バブル期に東京にきた『北の国から』純の就職とピン札

1984年ドラマ(『北の国から ’84夏』)では小学生だった純だが、3年後の『北の国から 初恋』では、就職という話になる。純は、地元の高校に行くのではなく、東京での就職を選ぶ。やはり東京への思いが強かったのだ。当時の小・中学生は、純が高校に進学しなかったのだから、自分も、とは思わなかっただろう、それはそれ。

当時の高校進学率は、94.3パーセントだから。純の選択は、当時としても少数派である。

純の上京手段は、東京行きの運送トラックの助手席への相乗りだった。このぶっきらぼうトラック運転手を演じていたのは古尾谷雅人。ドライバーは、東京まで純を送ったのちに、父の五郎から謝礼としてもらっていた2枚の札を純に返す。「オラは受け取れん」。札はピン札だが、そこに泥がついている。彼は、五郎が苦心して稼いだ金だということを察していた。純は涙をこぼしながら父と妹の螢との富良野での暮らしを思い返す。

■自動車修理工場への就職という選択は、悪くなかった

当初、純が勤め先に選んだのは、東京の自動車整備工場である。先輩たちからは小突かれ、大事な泥のついたピン札まで盗まれた。純は、傷害事件を起こす。

思い描いていたのとは違う東京だっただろう。87年は、バブル期である。トレンディードラマ全盛の時代の中で、純だけが、つらい思いをしていたのだ。

ちなみに最初の勤め先はすぐに辞めることになったが、このときの純の自動車修理工場への就職という選択は、悪くなかったはずだ。電気工作が得意で、機械への関心を持っていた純らしい選択。手に職をつけたいという意識もあったはず。小規模の工場の収入は高くはない。だがこの先の時代まで見据えている。新車の販売台数は、このあとの1991年にピークを迎え、右肩下がりになるが、自動車の普及台数は、まだ伸び続けた。

■『ツルモク独身寮』の主人公は高卒のライン工

団塊ジュニアは、バブルの波には乗り遅れた世代ではあるが、高校卒業の時点で就職を選んでいれば、ぎりぎりその波に間に合っていた。

ビッグコミックスピリッツ』で1988年から連載が始まった窪之内英策の『ツルモク独身寮』は、当時の人気漫画作品のひとつ。四国の田舎の高校を卒業した主人公の宮川正太は、東京のツルモク家具に就職する。

バブル期のトレンディーラブコメとして人気のあった作品だが、舞台は家具工場の独身寮で、主人公は高卒のライン工だった。まるで時代の先端の職業を描こうとしてはいなかったのだ。東京といっても都心からは距離のある郊外にある工場である。周囲には遊びのための施設もない。彼らは、休みの日に都心まで遊びに行く。先輩は東京に出かける用に肩パッドの入ったソフトスーツを持っている。彼らの生活の中にも、少しだけバブルの影響があった。

正太の初任給は、手取りで12万円。当時の高卒初任給の平均に近い数字だ。高卒初任給が15万円台を上回るのは、バブル後のさらにあとの90年代になってからだった。女性となるとさらに10年ほど遅い。

■『冬物語』は、ラブコメを兼ねた受験のハウツー漫画

同じ時期に『ヤングサンデー』では、予備校での浪人の生活を題材にしたラブコメが連載されていた。原秀則の『冬物語』である。連載期間は1987~90年。こちらは、高校を卒業したが、大学の受験に失敗し、浪人生活を送る森川光が主人公である。

光は、受験した大学のすべてに不合格となった。大学への進学を軽く考えていた光は、現実を突きつけられる。予備校の願書の申し込みに出かけるのだが、ここで、2人の気になる女の子に出会う。

東大受験コースに申し込みに来ていた優等生タイプしおりと、私大文系コースですでに2浪目に突入していた朗らかな奈緒子である。光は、身の丈に合った日東駒専合格コースを申し込むつもりで予備校に来たのだが、見栄を張り東大受験コースへの申し込みを行い、のちに後悔する。

光は、受験する大学のレベルに分かれてコースが細かく設定されていることもろくに知らなかった。また「日東駒専」がすべり止めの定番だったのは過去の話で、今や中堅校になっているなど、受験のリアルな知識が示される。予備校生活を気楽に捉えた作品かというと、むしろシビアなものに描きすぎて、人気が出なかったのだろう。これ以前も、ラブコメに浪人生は描かれた(『めぞん一刻高橋留美子、『みゆきあだち充)ことがあったが、ここまで実践的な話ではなかった。『冬物語』は、ラブコメを兼ねた受験のハウツー漫画だった。

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速水 健朗(はやみず・けんろう)
ライター編集者ラジオ司会
1973年石川県生まれ。コンピューター編集者を経て、2001年よりフリーランス編集者ライターとして活動を始める。音楽、文学、メディア論、都市論、ショッピングモール研究、団地研究など幅広い分野で執筆。主な著書に『1995年』(ちくま新書)、『東京β』(筑摩書房)、『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)、『自分探しが止まらない』(ソフトバンク新書)、『ケータイ小説的。』(原書房)、『東京どこに住む』(朝日新書)などがある。

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とんねるず・石橋貴明2021年5月16日、ZOZOマリンスタジアムでの始球式で(写真=YouTube: 【帝京魂】とんねるず・石橋貴明始球式/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

(出典 news.nicovideo.jp)

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Source: 芸能野次馬ヤロウ

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