【芸能】松本零士さんのお別れ会、親族や声優・漫画家仲間が涙 ちばてつや、野沢雅子ら3000人参列「これより松本は長い旅に出ます」

松本零士さんの偉大な業績と人柄に感謝の気持ちを込めて、お別れ会に参列した仲間たちの涙が止まらなかったようですね。彼の作品は永遠に多くの人々の心に刻まれることでしょう。

 2月13日急性心不全のため85歳で亡くなった漫画家松本零士さんのお別れ会が3日、東京国際フォーラムで行われた。親交のあった声優や漫画家仲間、関係者が約3000人参列し涙を流しながら、それぞれ“星の海”に旅立った松本さんへ思いをつづった。喪主は妻で漫画家の牧美也子が務め、お別れの言葉では、ちばてつや野沢雅子らが思い出を語った。

【写真】感涙も見せた野沢雅子…松本零士さんのお別れ会の様子

 会場では松本さんの軌跡を振り返るパネル展示や『銀河鉄道999』の999号機関室を再現した展示、999号の車窓で訪れた人の手紙を受け取る粋な展示企画が実施された。

 主な参列の著名人は池田昌子一龍斎春水、宇田鋼之介、浦沢直樹凰稀かなめ 加藤登紀子、ささきいさお、里中満智子、島本和彦、タケカワユキヒデ、ちばてつや、豊田有恒、中川晃教、永井豪野沢雅子萩尾望都潘恵子潘めぐみ弘兼憲史、武論尊、的川泰宣、毛利衛、安彦良和、山崎直子、りんたろう

 牧美也子は「みなさま、今日は、こんなにたくさんおいでいただきまして、本当にありがとうございました。長年、松本は本当に自分の好きな仕事を続けまして、みなさんの心の中に何かを残してきましたことを、同じ仕事をしている漫画家としての私も非常に共感、嬉しく思っております。今後とも、松本の仕事が、みなさまの心の中で生き続けてくれることを願っております。本当に今日はありがとうございました」とあいさつ

 長女の松本摩紀子は「松本におきましては、生前、皆様に大変お世話になり、誠にありがとうございました。ご存知の方も多くいらっしゃるかと存じますが、「俺は俺の旗の下に生きる」というポリシーの下に、私が松本の手伝いを始める以前は、マネージャーも置かずにおりましたが、その結果、遅刻とオーバーブッキングや、お約束のすっぽかし…大遅刻とか締め切りを守らないとか、色々ございました。家族は見ていてハラハラしていたのですが、この場をお借りしまして、松本に代わりまして、謹んでお詫び申し上げます」。

 「松本とはよく、そのことで口喧嘩をしていました。「お父さん、そんなことをしていると、お父さんに何かあった時、誰も来てくれなくなるよ。」とと私が申しますと、それに対して松本は、「何を言うか!俺はまだくたばらん!」と、結局は単なる親子喧嘩になってしまい、そもそもの問題の解決には至らずにおりました。
 そして今日、とうとうその日を迎えた訳でございますが、長いコロナ禍というトンネルを抜けて、松本がお目にかかりたかった皆様にこうしてお集まりいただけたことに、心から感謝と御礼を申し上げます」。

 「これより松本は長い旅に出ます。「遠く時の輪の接する処で再び巡りあえる」と松本はよく申しておりましたが、それがいつになるのか全く見当もつきません。永遠と言えるほど遠い未来なのかもしれませんし、私達の考えるそれとは違う違った方法で訪れるのかもしれません。ですが、一つ確かなのは、その時まで、松本が遺したキャラクター達や物語を大切に預かり、見守り、育てていくことが、私達の責務であり、それが松本との約束だと思っております。至らない点も多々ございますが、精一杯精進してまいりますので、皆様方におかれましては、今後とも引き続き、ご支援を賜れますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。本日は誠にありがとうございました。以上を持ちまして、私の挨拶とさせていただきます」と伝えた。

 松本さん1938年1月25日生まれ。福岡県久留米市出身。6歳の頃から絵を描き始め、9歳で手塚治虫氏の『新寶島』『月世界紳士』をきっかけに漫画を描き始める。16歳の時に投稿作『蜜蜂の冒険』が「漫画少年」にて受賞掲載され、これが商業誌デビューとなる。漫画家デビュー1957年「少女」掲載の『黒い花びら』。1968年ごろより青年漫画誌が誕生し始めたころ「漫画ゴラク」に『セクサロイド』を発表。以降、青年漫画誌での執筆が増え、少年・青年漫画のジャンルで活躍するようになった。

 代表作は『男おいどん』『ガンフロンティア』『宇宙戦艦ヤマト』『エメラルダス』『ザ・コクピットシリーズ』『宇宙海賊キャプテンハーロック』『銀河鉄道999』『新竹取物語1000年女王』ほか。受賞・受章歴は、2001年に紫綬褒章受章、2008年練馬区名誉区民、2010年に旭日小綬章受章、2012年フランス芸術文化勲章 シュバリエ受章など。

ちばてつやコメント
 松本零士さん私があなたと初めて会ったのは、今からもう65年前、二人ともまだ高校を卒業した次の年。あなたは、北九州の小倉から夜汽車にのって上京したばかりで夜行列車の煙のススでしょうか、ちょっとホッペタが黒く汚れていて、でもまだ学生服の詰襟が似合う、紅顔の美少年でした。その頃私もマンガ家としてデビューしたばっかりで、食うや食わず。お互いにまだ売れない新人漫画家同士でね。

 文京区本郷三丁目に東京大学があります。あなたはその赤門のすぐ近くの西陽が差す、家賃の安い四畳半の「山越館」という下宿屋に居を構えて出版社に持ち込むための原稿を描きながら、いつも、いつも、お腹を空かせていましたね。でもあなたの、青雲の志は人一倍高く、いつかそのうちに大きな連載を勝ち取って、原稿料もらったら超一流の三つ星レストランでザブトンのようなステーキを食ってやる。その時にはちばちゃんにも食わせてやるぞ・・・と二人で夢を語りつつ・・・ちょっと色っぽいヌード写真や、18禁の色っぽい本をこっそり見せ合いながら、可愛い女の子や、美しい女性を描く練習に励む毎日でした。

 やがて二人ともまあ紆余曲折、短編を描いたり、イラストを描いたり、忙しい先輩漫画家のお手伝いをしたりして、苦労しながらも修行の成果が少しずつ上がって、なんとか一人前の漫画家として生活ができるようになっていきますけども…そうそう、松本さんはね親しくしていたのに私には全く内緒で、いつのまにか、同じ本郷に住んでいた牧美也子さんという美しい女性漫画家の伴侶を得て、どっしりと家庭を構えてからは順風満帆、その後『セクサロイド』や『男おいどん』などに続き、『キャプテンハーロック』、『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』手がける作品が次々と大ヒットマンガ界も大きく飛躍し、週刊誌の時代に入って、二人とも寝る時間のないほど締め切りに追われる生活が続いていましたけども1979年昭和54年)、我々がちょうど四十歳になる頃でしたけど、戦闘機とか戦艦とか、宇宙船だとかコックピットだとか・・・そういうメカニックが大好きな松本さんがある日突然電話をかけてきて「超音速旅客機コンコルドに乗りたいぞ。」と言い出して、コンコルドに乗って宇宙に近い成層圏を飛んで世界一周するからちばちゃんも一緒に行こう・・・と誘われました。

 私は、どちらかというと成層圏もコンコルドも、メカニックも、全く興味がない人間だったし、それより何より、仕事も人一倍遅いものでしたから、週刊誌の締め切りで七転八倒していたので絶対無理だとお断りしたのですけれども…もうツアーも組んで、旅券からホテルから全て予約したから、と。もういろいろと寝耳に水で、松本さんの強引さに呆れて、あんなに慌てたことはありませんでしたよ。でも、詳しく話を聞くと、私も松本さんもちょっと親しくしていた女流漫画家さんの萩尾望都さんや『宇宙戦艦ヤマト』の森雪の声を担当した麻上洋子さん(現・一龍斎春水さん)も同行するけどどうする?って聞かれて、悩みましたけど…まあやむなく連載を休むことにして「仕方がなく」ですけども同行することになってしまいました。

 その後も一緒に草野球をやったり、運動会をやったり、ゴルフをやったり、お互いに仕事が遅くて時間がない中、ずいぶん無理をして仕事もして、遊びもしたものです。

 80歳を過ぎてからもあなたはいつも元気で、「ちばちゃん、そのうちに宇宙船に乗りたいな。宇宙船に乗って、無重力のなかで座布団みたいなビフテキを食ってみたい」と元気いっぱいでしたけど。2年程前、イタリアのトリノで松本さんファンに会うイベントの旅先でちょっと体調を崩された、というニュースを聞いた時は、本当に肝を潰しました。

 帰国後はしっかり養生してずいぶんお元気になったと聞いていましたけども、このコロナの時代になってしまい、なかなか会うことも難しい中、今年の2月13日、奥様の牧美也子さんと、お嬢さまの摩紀子さんに見守られて、あなたのいつも夢に見る、大好きな大好きな銀河の世界に旅立っていきました。いまさら私がいうまでもなく、あなたが漫画やアニメーションに遺してくれた業績は本当に偉大で、旭日小綬章、紫綬褒章だとか、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ受賞だとか、挙げたらキリがありませんね。

 大昔…北九州の小倉から夜汽車に乗って上京した詰襟の少年が、85年間の人生で素晴らしい大きな足跡を残したことに・・・・・今はみんなが感謝しそのことを心から賞賛し、お別れを惜しむために・・・こんな天気の悪い中、こんなにも大勢のファンや、仲間や、関係者が集まってくれましたよ。

 松本さん、今あなたとお別れするのはとっても辛いですが…もう、誰がどうみてもこれ以上ない、充実した人生、世界中の人から拍手喝采をされる、大往生でした。長い間お疲れ様。私もね、もう少しだけ頑張ったら、松本さんの居る銀河系を追いかけて行きますから。そしたら今度こそ、ザブトンのようなビフテキを一緒に食べようね。じゃあいってらっしゃい。

野沢雅子コメント
松本先生、先生が旅に出られてから3ヶ月が過ぎました。私の中では、いつもの先生の笑顔が、すぐに浮かんで来ますので、まだピンと来ていません。先生と初めてお会いしたのは45年程前、『銀河鉄道999』で、星野鉄郎をやらせていただいた時でした。親しみやすい笑顔で気さくに話しかけて下さったので、すぐに打ち解けることができ、安心したことを今でも、よく覚えています。先生との思い出はかぞえきれない程、たくさんありますが、やはり『銀河鉄道999』の全国横断のイベントでしょうか。

 日本中をご一緒に回りましたね。イベント先ではいつも夜遅くまでスタッフの皆さんと飲んでいらっしゃって、お話しが大好きな先生の周りには、常にたくさんの人の笑顔があったことを昨日のことのように思い出します。2年少し前には、取材でご一緒して、また、お会いしましょうねとお話していたのに、もう旅に出かけてしまうだなんてちょっと早いのではありませんか?寂しい気持ちは消えませんが、きっと先生は999号で車掌さんに会って、旅先でも好きな漫画を描いては楽しく過ごしていらっしゃるのではないかと思います。宇宙から、こちらの世界を見守っていてくださいね。先生と鉄郎に会えて私、本当に良かった。本当にありがとうございました。

(C)松本零士/零時社

松本零士さんのお別れ会の様子(C)松本零士/零時社

(出典 news.nicovideo.jp)

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Source: 芸能野次馬ヤロウ

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