W・ディズニーの「日本人とは二度と仕事をするな」発言を乗り越え、東京ディズニーランドを完成に導いた1人の女性 舞台はわずか13坪の銀座の高級クラブ《きょう開園40周年》 から続く
1978(昭和53)年の芸能界デビュー以来、歌手、女優として息の長い活躍を続けている薬師丸ひろ子(58)。中学2年生で鮮烈な映画デビューを果たした「伝説の美少女」の第一発見者が、銀座のクラブで働くスタッフであったことはあまり知られていない。
「あれは1970年代半ばのことでした」
そう語るのは銀座の高級クラブ「順子」のオーナー、田村順子ママである。
「オーナーママにとってもっとも重要な仕事は、才能のある女の子をスカウトすることです。私自身がアンテナを張ることはもちろん、周囲の方々にもお願いして、これはという子がいれば、すぐに知らせるようにと言い聞かせておりました。当時の私は日本でいちばんの“いい女ハンター”でしたね」
そんなある日、店の運転手の“タカギ君”が血相を変えて店に飛び込んできた。
「ママ、大変です」
「どうしたの、タカギ君」
「さっき青山の中学校そばを歩いていたら、信じられないほどかわいい女の子が歩いていました」
「信じられない?」
「あれほどの子は、ちょっと見たことがないですね」
順子ママの背筋が伸びた。“いい女ハンター”が獲物を見つけたときに出る「合図」だ。
「タカギ君、写真を撮ることはできない?」
「まだ中学生だと思いますから、毎日あの道を通るでしょう」
「できるのかしら?」
「やってみます」
順子ママが振り返る。
「いまではそんな乱暴なことはしませんが、タカギ君があまりに興奮しているので、私もどんな女の子なのか、知りたかったのです。でも、いちばん写真を撮りたかったのはタカギ君だったかもしれません。さっそく翌日から張り込みを開始していましたから……」
さっそく“タカギ君”によって撮影されたモノクロ写真が届けられた。清楚な黒髪に印象的な瞳――それは順子ママの想像のはるか上を行く、圧倒的な存在感を放つ美少女だった。
「私は、こんな美少女を見つけたことを、思わず誰かに言いたくなってしまいました」
当時「順子」の常連客の1人に角川春樹(当時角川書店社長、現・角川春樹事務所代表)がいた。1970年代、『犬神家の一族』や『人間の証明』といった角川映画を大ヒットさせていた春樹は、「順子」を夜の事務所代わりにして、連日のように森村誠一(作家)や岡田茉莉子(女優)、ジョー山中(歌手)といったメンバーと映画に関する打ち合わせを行っていた。
「春樹さんがお店に来るようになったきっかけは、当時在籍していたチコちゃんという女の子が角川文庫の大ファンだったことから、春樹さんが彼女のことを気に入って、通っていただけるようになったのです」(順子ママ)
「ママ、この写真、ちょっと貸してもらえないかな」
順子ママは、入手したばかりの「美少女写真」を手に取ると、春樹氏に手渡した。
「ねえねえ春樹さん。ウチのタカギ君が、こんなかわいい女の子を見つけてきたんですよ」
すると、店内に一瞬の静寂が訪れた。賑やかに談笑していた春樹氏が、沈黙して写真を凝視している。そして真顔でこう言った。
「ママ、この写真、ちょっと貸してもらえないかな。どこの子なんだろう」
順子ママが振り返る。
「内心、しまったと思いましたが、いまさらダメですとも言えませんでした。青山で撮影したと正直に伝えると、春樹さんは急に仕事人の顔に戻っていきましたね」
その写真には、日ごろ女優に囲まれている映画人をも沈黙させる力が宿っていた。
その後、薬師丸ひろ子は1977(昭和52)年に行われた角川映画『野生の証明』のヒロイン役オーディションにて優勝し、翌年公開された同映画で高倉健との共演を果たした。この映画は角川映画として初めて邦画興行収入ランキング1位となり、薬師丸は一躍、スターダムを駆け上がることになる。
その後も『翔んだカップル』(1980年)、『セーラー服と機関銃』(1981年)、『探偵物語』(1983年)の大ヒットにより、シンデレラ・ガールは角川映画のエース女優としての地位を確立していくことになった。
薬師丸ひろ子自身は、自分の芸能界デビューの経緯についてこう語っている。
「実は、たまたま私の写真を撮った人がいて、その方が私の知らない間にオーディションに応募していたんです。私は何の演技もしたことがないし、オーディションには落ちるつもりで行きました」(『日経ビジネス』2006年2月20日号)
春樹氏に手渡されたという写真との関係性はいまもって判然としないが、順子ママはこう語る。
「私は“タカギ君”が撮影した写真を見た春樹さんが、心のなかで薬師丸ひろ子さんを起用するということを決めていたのではないかと思っています。もしあのとき、彼女がもう少し年齢が上であったなら、私は間違いなく春樹さんに写真を見せず“お店で働きませんか”とスカウトしていたことでしょうね」
「写真だけで『この子だ』と直感しました」
実は、順子ママの「推測」を春樹氏本人が認めている。2020年のインタビューで、春樹氏はこう語っている。
「写真だけで『この子だ』と直感しました。目が印象的でした。オーディションの前に決めていました。私は直感を重視します。直感とは実存なんです。ひろ子より演技のうまい子はいます。綺麗な子もいます。彼女が演じた頼子は原作では小学生でした。ひろ子は中学生でしたから、設定を変えなきゃいけない」
「オーディションでつかこうへいが『ピンク・レディーを歌って』と言ったらね、ひろ子は『嫌だ』と断ったんです。その強さが気に入りました。政治家は『出たい人より出したい人』と言いますが、ひろ子も女優になりたいわけではなかった。その感じが良かった」(朝日新聞2020年10月13日)
『野生の証明』のヒロイン・長井頼子には1200名を超える応募があり、当時、日本の劇団に所属していた子役の女の子(頼子の設定は10歳だった)のほとんどがエントリーしていたという。それでも薬師丸が選ばれたのは、最終決定権のある角川春樹の「一押し」がすべてだった。
同作品のプロデューサーである遠藤雅也氏はこう語っている。
「佐藤(純彌)監督は別の子を推そうとしたんだよね。寒村で暮らす娘で、親が殺されるのを目撃したショックから予知能力が表れるという設定には、その子の方が相応しかったというのが理由です。演技が未経験の薬師丸では難しいと思ったのか、佐藤監督は、薬師丸が頼子役になるなら監督を降りるとも言っていた」(『週刊現代』2022年6月25日号)
「申し訳ありませんでした。あの子は天才です」
佐藤監督は演技経験のなさを懸念したが、そのとき春樹氏は「目の輝きが違う」と薬師丸をひたすらプッシュ。結局「鶴の一声」に逆らえる人間がいるわけでもなく、予定通り薬師丸ひろ子が抜擢されたが、後に撮影が進んだ際、佐藤監督は「申し訳ありませんでした。あの子(薬師丸)は天才です」と春樹氏に謝ったという。
「人生とは本当に分からないものだと思います」
そう語るのは順子ママである。
「私があのとき、写真を春樹さんに見せなかったら、日本の映画の歴史もまた変わっていたかもしれません。私が経営してきたクラブは、言ってみれば人との出会いによって、小さな偶然が積み重なるサロンでもありました。それによって、多くの幸せを提供できることが、私たちの生きがいでもあったのです。薬師丸ひろ子さんが日本の宝となって活躍されたことは、私にとっての喜びでもありました」
たった1枚の写真が生み出した奇跡の物語。順子ママの証言は、薬師丸ひろ子の女優人生にいっそうの輝きをもたらしてくれる。

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Source: 芸能野次馬ヤロウ