「明子、実家を頼む」……父の思いを受け止め、香川県高松市にある実家を相続することした、タレントの松本明子氏。ただ、築年数の経過とともに、実家の維持費はかさむ一方。さらには距離の壁も立ちはだかってきます。心の底では手放したいという思いを抱きつつも、「父親の遺言」を守るために松本氏が続けた奮闘をみていきましょう。
「明子、実家を頼む」…重く圧し掛かる、父の遺言
主人の実家で暮らし始めて5年ほどした頃、父が病に倒れました。
父が亡くなる少し前に病室を見舞いました。そのとき父は、じっと私を見つめて、一言、絞り出すように言いました。
「明子、実家を頼む」
これが遺言になりました。
すでに私が継ぐことになってはいましたが、それでも何かあれば、いつでも帰れるように、これから先もあの家をずっと大事に守ってほしい……、父は最後までそう願っていたのです。
わざわざ宮大工さんに頼んで建てたこだわりの家でしたから、普通の戸建てとは違う、それだけ価値のある家なんだ、という思いも強かったんでしょう。私のためばかりではなく、生きた証として自分の城を残したかったのだと思います。
それはまた母の願いでもありました。
高松の実家は母が相続しましたが、まもなく兄の了承を取ったうえで、実家や持ち物を私に残すと定めた公正証書遺言を公証役場で作成しました。母は父の思いを公証人を介してきちんとした文書で残したかったのだと思います。
それにしても父の言葉は重かった。実家の維持費に加えて戸建てのローン返済もあったので、正直、楽ではありませんでした。
両親が生きているうちは仕方がないけれど、維持費の負担を考えたら、将来的には実家を処分せざるを得ないかな、と心のどこかで思っていたのです。
ところが、父に「頼む」と言われてしまった。先々どうしたらいいものか……。葬儀などが一段落したあと、兄に相談しました。ところが、兄は実家に3年弱しか住まずに上京したこともあり、当然私ほど実家への思い入れはありませんでした。
父が一生懸命に働いて遺した家。しかも私の将来を気にかけて遺した家です。やっぱりそう簡単に手放すわけにはいかないよね……。
「頼む」と言った父の顔を思い浮かべながら、そう自分に言い聞かせました。まさか、あれほど実家に翻弄されることになるとは、そのときは思いもせずに。
市役所からの電話…実家の維持費はかさむ一方
父が亡くなってしばらくした頃、東京の私のところへ高松市役所から電話があり、「庭の草木の手入れをしてください」と注意を受けました。
父が元気なうちは、「草木は放っておくとどんどん伸びて害虫や動物を呼ぶので手入れが欠かせない」と言って母と一緒に実家へ帰るたびに草を刈ったり、枝を切ったりしていました。
父が亡くなったあとは、母が1人で高松へ帰ることもめったになかったので、私ができる範囲で草木の手入れをしていたのですが、庭木の剪定などは父のようなわけにはいきません。それでご近所から苦情が出てしまったようなのです。
受話器を手に、どうしよう、と思っていたところ、市の担当者の方が「地域のシルバー人材センターに庭の草木の手入れを頼むこともできますよ」と教えてくれました。
ところが、「料金はいかほどですか」とたずねると、「1回5万円です」との返事。思わず、「ええっ!」と素っ頓狂な声を出してしまいました。1回5万円ということは、年に2回頼んだら10万円です。うーん、実家の維持費がさらにかさむ。痛い……。
それでも実家を維持するには必要なコストだと思い、お願いすることにしました。これで年間の維持費は約37万円に増えました。
頻繁には帰れないものの…周囲の助けで家の状態を維持
父の死から4年後の2007年11月、母が亡くなりました。父が死んだときは、まだ母も兄もいましたから悲しみを分け合うことができた。でも母が逝ってしまうと、もう兄しかいません。二親を亡くした悲しみは大きく、とてもつらいものでした。
仕事ではいつものように元気いっぱいに振る舞っていましたが、「私ってこんな人だっけ?」と自分でも驚くほどの打ちひしがれようで、それから3年ほどは、両親がこの世にもういないという事実になかなか向き合えませんでした。
実家には両親の遺品がそのままになっていました。ですが、掃除や換気にたまに帰ってもとても片づける気になれず、その後もほとんど手がつけられませんでした。
ともあれ、母が亡くなり、遺言通り実家は、私が相続しました。ですが、私は頻繁には高松に帰れません。
そこでお世話になったのが、お向かいさんや近くに住む親戚でした。お向かいさんには郵便受けにたまった郵便物を2~3カ月に1回まとめて送ってもらい、親戚にはたまに実家に寄って、窓を開けて風を通し、掃除をしてもらいました。
実家の状態を良好に保てたのは、そんなみなさんの支えがあったからこそ。私1人ではとても無理でした。いまでも深く感謝しています。
震災を機にリフォームしたが…「遠すぎる」という現実
2011年3月11日、マグニチュード9.0、最大震度7の巨大地震が発生しました。津波被害に原発事故……。未曾有の被害を出した東日本大震災です。母が亡くなって3年余り。やっと母の死を乗り越えられた頃に起きた惨事でした。
あのときは本当に恐ろしかった。改めて自然災害の怖さを思い知らされると同時に、もし東京に大きな地震でも来て住めなくなったらどうすればいいんだろうと、とても不安になりました。
そのとき頭に浮かんだのは、空き家のままになっている高松の実家でした。
そうだ、あの家がある。あそこをもしものときの避難場所にしよう……。
いざというときすぐに住めるようにリフォームを行なうことにしました。台所、洗面所、お風呂場、トイレの水回りを全面改修したほか、温水や暖房使用時に使っていたボイラーを撤去して電気温水器とエアコンを設置しました。
台所や一部の和室の床をフローリングに張り替え、カーテンも全室取り替えました。家族が生活するための最低限のリフォームのつもりでしたが、結局、350万円もかかってしまいました。 痛い出費でした。
痛いと言えばもう1つ。このリフォームを通じて大変なことに気づいてしまいました。業者さんとの打ち合わせなどで何度も実家へ足を運んだのですが、とにかく体力的にキツイのです。
40代も半ばになっていた私にとって高松は遠すぎました。それからは、換気や掃除のために実家へ帰るのも、東京から行くのは大変なので、関西で仕事があって翌日がオフのときをなるべく利用するようにしました。
とにかく遠くて大変。体力的にもキツイので、せっかく大金を費やしてリフォームしたのに、結局、実家に家族で寝泊まりすることは、ほとんどありませんでした。
松本 明子
タレント/女優
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Source: 芸能野次馬ヤロウ