ただ、世に出たのはその2年7ヵ月前。セブンティーンクラブという3人組の一員として2枚のシングルを出したが、ほとんど売れず、解散した。この時点で、これほどの大物芸能人になるとは本人含めて誰も思っていなかっただろう。
ではなぜ、これほどの存在になれたのか。彼女の軌跡を振り返りながら、考えてみたいーー。
遅れてきたおニャン子
PONY CANYON ウェブサイトより
1984年、中2でミスセブンティーンコンテストに入賞した彼女は、このコンテスト出身の3人で結成されたグループで翌年1月にデビュー。しかし、前述のようにシングル2枚で解散となった。
他のふたりも、のちにモデルとなって清原和博と結婚する木村亜希、シンガーソングライター・森丘祥子として再デビューする柴田くに子という、そこそこの実力者だったが、なにせ、この時期は80年以来のブームにより、アイドルが飽和状態だったのだ。
松田聖子、中森明菜というツートップはもとより、同期にも斉藤由貴、中山美穂、本田美奈子、南野陽子、浅香唯といった強力なライバルがいた。ミスセブンティーンコンテストで優勝した松本典子と網浜直子も同期デビューだが、シーンのなかではかすんでしまったほどだ。
なかには国生さゆりのように、このコンテストでスカウトされながら、なかなかデビューできず、芸能人運動会の助っ人くらいしか出番のない人もいたから、中2でデビューできた工藤はまだ恵まれていたともいえる。
ただ、この年の春に始まったおニャン子クラブのブームが、くすぶり組を救うことになる。国生はその初期メンバーに選ばれ、86年2月に「バレンタイン・キッス」でソロデビュー。同じくミスセブンティーンコンテストでスカウトされていた渡辺満里奈もこれに続いた。
そんななか、高1になっていた工藤も再チャレンジ。86年5月に、おニャン子に選ばれ、10月には満里奈のデビュー曲で生稲晃子とともにバックコーラスを務めて、注目された。87年5月には、生稲、斉藤満喜子とともにうしろ髪ひかれ隊としてデビュー。その3ヵ月後、冒頭で触れたソロデビューを果たすわけだ。
とはいえ、ソロデビュー曲「禁断のテレパシー」の発売日はおニャン子の冠番組「夕やけニャンニャン」(フジテレビ系)の最終回の日でもあった。9月20日のコンサートでおニャン子は解散して、ブームはひと区切り。その3日後に行われたうしろ髪のインタビューで工藤は、
「これからいろんなことが3人で頑張っていかなきゃいけないんだなー」
と、神妙に語っていた。
つまり、彼女は「遅れてきたおニャン子」だったのだが――。これがかえってよかったのだろう。おニャン子時代にアイドル性を消費されずに済み、新たな展開をしやすかったからだ。
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現代ビジネス 8/31(水) 8:03
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Source: 芸能トピ++