【芸能】子と孫は殺され、実父は自らが追放…NHK大河ドラマでは省略されてしまう北条政子のすさまじい人生

すさまじい人生

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の妻・北条政子とは、どんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「頼朝亡き後、事実上の最高権力者として幕政をつかさどった。子供や孫が次々と非業の死を遂げる悲惨な目にあいながらも、くじけず幕府を率いた強い女性といえる」という――。

■猛女・北条政子の悲劇的な私生活の中身

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人」のなかで、小池栄子が演じる北条政子存在感がますます高まっている。建久10年(1199)に夫の源頼朝が急死し、頼朝とのあいだに生まれた嫡男の頼家が家督を継ぐと、出家して尼御台とよばれるようになったが、むしろ彼女の本領は尼になってから発揮される。

頼朝という核が失われた鎌倉幕府で、若い頼家とベテラン御家人たちとのあいだに軋轢が生じたとき、いちばん重いのは政子の言葉だった。これから先も、源氏の血筋が絶えたのちには尼将軍とよばれ、鎌倉幕府が編纂(へんさん)した歴史書『吾妻鏡』も、それからは政子を「鎌倉殿」として扱っている。

実際、日本史、それも政治史の表舞台に登場する数少ない女性であり、日本史上における猛女とはだれかと問われれば、多くの人が政子の名を挙げるのではないだろうか。そんな強い女性を、小池は強い目力を生かして好演している。

しかし、ひとたび彼女の私生活に目を移すと、表舞台での華々しさと裏腹に、あまりに悲惨である。いや、表舞台の立場が大きくなりすぎたがゆえに、幕府のさまざまな工作や、血で血を洗う御家人たちの闘争の矢面にも立つことになり、次々と悲惨な状況を呼び込むことになった、という言い方もできるかもしれない。

■20歳を迎えずに2人の娘は病死した

7月までの放送のなかで、政子はすでに2人の娘を失っている。最初は長女の大姫である。

彼女は木曽義仲の嫡男で、事実上、鎌倉に人質にとられていた義高の許嫁(いいなづけ)だったが、義仲滅亡後、義高は殺される。すると大姫は強い精神的な衝撃を受け、その後はずっと病気がちになってしまう。それでも、将軍家の権威を高めたい頼朝は、大姫を後鳥羽天皇の后(きさき)にするという工作に乗り出すのだが、結局、建久8年(1197)7月に、20歳を迎えることなく病死してしまう。

代わりに頼朝は、頼家の妹に当たる(政子とのあいだに生まれた)次女の三幡を入内(じゅだい)させることにするが、それを前にして頼朝自身が急死し、それから半年もたたずに三幡は満14歳を迎えることなく病死している。

政子には4人の子がいた。順に大姫、頼家、三幡、千幡(せんまん)(のちの実朝)で、娘が2人とも20歳を迎えることなく早世した以上、2人の男子にかける期待は大きかっただろう。

だが、周知のように、頼家は頼朝が急死してから5年あまりで殺されてしまう。しかも、そこにいたる過程に政子自身がからんでいる。

■子と孫は他人に殺され、父親は自分で追放

その悲劇は、『吾妻鏡』によれば、建仁3年(1203)8月に頼家が危篤に陥ったことに始まっている。

幕府内での話し合いで、頼家の嫡男の一幡(いちまん)が東日本を、弟の千幡が西日本を継承することになったが、頼家の外祖父の比企能員は不満で、娘(頼家の妻・若狭局)を通じて頼家に働きかける。結果、能員は頼家の病床に呼ばれ、北条氏討伐の計画を話し合うことになるが、その話を障子越しに聞いていた政子が父の北条時政に急報。結局、能員は時政に謀殺され、比企一族も滅ぼされ、そのとき一幡も殺されてしまう。

その後、病状が回復した頼家は息子と舅の死を知って激怒し、北条討伐をもくろむが、逆に政子の命令で出家させられ、挙げ句、翌元久元年(1204)7月に修善寺で、北条の手勢によって殺された。満21歳にすぎなかった。

幕府に都合のいい書き方をする『吾妻鏡』をそのまま信じることはできない。とはいうものの、政子は将軍不在の際、その代行を務めるという立場であって、自身が関与する政局のなかで最愛の長男を失ったことには変わりない。ちなみに、一幡は政子の初孫だった。

この時点で政子の実子は千幡しか残っていない。その千幡が実朝と名乗って「鎌倉殿」を継承することになった。だが、今度は実父との争いが勃発する。

父の時政が実朝を囲って権力を独占するのを嫌って、政子は実朝を自分の手もとに連れ戻した。すると、時政と妻の牧の方は反発。しまいには女婿の平賀(ひらが)朝雅(ともまさ)を将軍にしようと画策したので、元久2年(1205)、政子は弟の北条義時と組んでその陰謀を阻止し、実父を出家させたうえで伊豆に追放せざるをえなくなった。

事実上の最高権力者として、守らなければならないものが次々と生じた政子。彼女が息子や父を追放しなければ、政局はさらに陰惨な結果を招いたかもしれない。しかし、それがことごとく身内の不幸につながるとは、あまりに惨憺(さんたん)たる境遇ではないか。

■ただ一人残った子は孫に殺される

政子の実子として最後に残った実朝は、朝廷との融和を図り、その間に御家人たちの不満は募りがちではあったが、実朝自身はとんとん拍子で昇進を続けた。

実は、その前に政子は朝廷とかけあって、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎える画策をしていた。実朝は病弱なうえに子もなく、このまま将軍職は務まらないだろうという判断で、それに実朝も同意していたという見方もある。

いずれにせよ政子にとっては、ただ一人残った実子に「鎌倉殿」は務まらないと判断するのはつらかっただろうし、一方で、親王を将軍として迎えられれば、息子の安全が保たれる、という思いがあったのかもしれない。

しかし、そんな願いも虚しかった。建保7年(1219)正月、右大臣拝賀の儀式が鶴岡八幡宮で行われ、社前の石段を下っているところを、甥(頼家の次男)で鶴岡八幡宮別当だった公暁(こうぎょう)に暗殺されてしまう。享年は26だった。公暁は単独での犯行とする説と、黒幕が存在していたという説があるが、どちらにしても、その日のうちに討たれている。享年18。

公暁ら頼家の子を仏門に入れたのは政子の判断だった。政子の孫は頼家の4男1女だけで、すでに殺されていた一幡を除き、3人の男子(公暁、栄実、禅暁)はみな出家させたのだが、それは政争に巻き込まれるのを避けるためだった。ところが、その効果はなかった。

まず三男の栄実が、北条氏への反感を抱いた泉(いずみ)親衡(ちかひら)に将軍として擁立されて殺されている。続いて次男の公暁である。政子にとっては、ただ1人残った自分の子が自分の孫に殺される、という最悪の結果になってしまった。そしてもう1人、頼家の四男の禅暁も公暁に加担した疑いで、実朝暗殺の翌年、殺されている。

■政子の表情の奥にある悲惨な体験

その後、承久3年(1221)の承久の乱に際しては、後鳥羽上皇が挙兵したという報に動揺する御家人たちに向かって、「最後のことば」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い」という声明を出し、彼らをまとめあげて幕府軍の大勝利のきっかけを作った政子。

しかし、その心は、実は山よりも高く、海よりも深く傷んでいたのではないだろうか。それとも、この時代を力強く渡っていけた精神には、肉親の相次ぐ非業の死も、大きくは響かなかったのだろうか。

承久の乱で勝利したのちも、事実上の鎌倉殿である尼将軍として君臨した政子は、嘉禄元年(1225)に病に斃(たお)れ、68年の生涯を閉じた。それから9年後、政子の孫として唯一生き残って、北条氏が4代将軍に迎えた藤原頼経の御台所となっていた竹御所が、男児を死産し、同時に亡くなった。こうして頼朝と政子の血筋は完全に絶えることになった。

強さが悲劇を呼んだのか、悲劇を乗り越えられる強さがあったのか。政子の表情の奥に彼女が積み重ねてきた凄惨(せいさん)な体験を思い浮かべると、大河ドラマの味わいも増すはずである。

———-

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

———-

北条政子像〈菊池容斎画〉(図版=PD-Japan/Wikimedia Commons)

(出典 news.nicovideo.jp)

続きを読む
Source: 芸能野次馬ヤロウ

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク