日テレもフジテレビも、「忠臣蔵」のドラマを作れなくなった「根本的な理由」

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1: なまえないよぉ~ 2021/12/15(水) 18:04:26.22 _USER9

元禄15年12月14日、大石内蔵助をはじめとする四十七士が吉良上野介を討ち取る「赤穂事件」が起こった。これに至る顛末を描いたのが「忠臣蔵」だ。かつてはよくドラマや映画になった「忠臣蔵」だが、最近では映像化される機会も格段に減ってきている。いったい、なぜなのか…? 時代劇研究家の春日太一氏の新刊『忠臣蔵入門』から、その理由を紹介しよう。

忠臣蔵の映画やドラマが長いこと作られてきた背景として、作り手側にも大きな事情がありました。「忠臣蔵」は大きな見せ場だけで六つあります。それぞれ屋内が主な舞台になるため、セットを作る必要があります。

「松の廊下」であれば、かなり長い廊下で襖に大きな松が描かれている。「大評定」の広間は赤穂藩の藩士全員が入る広いスペースになります。それから、祇園で大石が遊ぶ遊郭に「東下り」の宿に瑤泉院の屋敷。さらに討ち入りで使う吉良邸のセットも、大がかりなアクションを撮るだけの規模が必要になる。

どの見せ場も、セットにかなりお金がかかるわけです。しかも、それぞれが、その一回の見せ場のためにしか使われません。つまり、1シーンだけのために大がかりなセットを作らなければならない。そのセットがいくつもある。それだけたくさんお金が必要だし、それを作れるだけのスタッフの技術力も必要になる。
そして何より、忠臣蔵はオールスターが前提になります。そうなるとキャストを集める資金力も政治力も必要。つまり、「忠臣蔵」を作るというのはかなりの大プロジェクトなのです。

「忠臣蔵」を作るということは、「自分たちは忠臣蔵を作れる力があるんだ」という誇示でもあるわけです。そのため、映画会社やテレビ局の何周年記念作品だとか、あるいは、すごく会社の調子が良いときの特別な作品として作られてきました。

たとえば東映は1950年代に時代劇映画の黄金期を迎えていますが、その最盛期の1956年に「創立五周年記念作品」として作ったのが『赤穂浪士 天の巻 地の巻』。ここから短期間で計3本オールスター忠臣蔵を作り、その力を見せつけました。東映は、一度は映画から時代劇を撤退させますが、1978年、『柳生一族の陰謀』で一時的に復活させます。そして次の作品は『赤穂城断絶』と、忠臣蔵を持ってきます。「東映は時代劇を復活させましたよ」というアピールになったわけです。

NHKの大河ドラマもそうです。63年のスタート時はまだテレビの制作力は下に見られていました。そうした中で第一作『花の生涯』は「無謀な企画」と言われながらもやり遂げる。そして第二作となったのが、『赤穂浪士』でした。ここに映画スターの長谷川一夫を連れてきて大石内蔵助に置く。そして、新劇のトップにいた滝沢修を吉良上野介に持ってくる。これはいままで映画界から下に見られてきたテレビ局が、遂に1年かけてオールスターの「忠臣蔵」を描けるだけの力を持った――というアピールでもあり、「NHK大河ドラマ、ここにあり」という威信を誇示する場として成り立ったわけです。

続きはソースをご覧下さい

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/90289

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Source: 芸能トピ++

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